手を洗うということ

2019年12月25日水曜日

茶室に独り

手を洗う。

 あまり洗わないようにした方がよい。よく考えてから手を洗うよう習慣づけた方がよい。

 とにかく洗うという気持ちがあったら、一度見つめ直した方がよい。

 マクベスのように強迫観念から、手が汚れていると感じるのだ。

 どこかしら後ろめたいことがあるのだ。



 
 手を汚してしまったという自覚が、いつまでも手を洗おうとさせる。

 それは何かのトラウマがあるということにつながる。



 茶室の水屋など、あれではろくろく洗えるものではない。

 ジャブジャブと水を使うものではない。ケチっているのではなく最低限のものしか置かないし遣わない。

 そのせめぎ合いが試される場でもある。



 茶室に入るとき、シシオドシで手をちょっと洗ってから入る。

 しかし、にじり口の引き戸に手をかけたりすれば汚れたと感じてしまう。


 気にしない様子でいること。
 それはとても気を遣う。




 強い心をもって何にも動じないようにしておく。

 何をしてたかなど見透かされてしまう。


 取調べ室、職質、なんでもそういう圧迫をかけているものだ。



 何やら重要施設の前、警備で突っ立っている警官か治安警察、歩いてくるこちらをずっと見ていた。

 ちょうど差し掛かったところに、ゆらりと体を揺らして、こちらに倒れ掛かってダッシュしてくるような動きを見せた。
 目はこちらを見たままだ。

 アレはわざとだろう。

 それで動じればこちらが怪しいというわけだ。

 
 子供じみた下級役人の遊びだろうが、外国人とは分かっていた筈だ。
 騒乱ともなればこちらも容赦はしないが、突然に拘束されても理由は告げられない。
 世界にはそんな場所もある。

  
 常に乱ありだ。