一汁一菜の本来とは

2021年3月14日日曜日

古式生活 江戸時代 食事 武士道

 武士、すなわち男子たるものは「一汁一菜」を信条とすべきである。


 それはあくまで「信条」であるから、理想でもあり、目標でもある。

 日々の食事で実践しているかと言えばそこまでのものでもない。



 「一汁一菜」とはご飯に野菜、そして汁だ。

 ではその中味は何か。


 例えば、タクアンやカブの漬物、白菜の浅漬け、大根の葉っぱの塩もみしたもの。エトセトラ、エトセトラ。

 そんな食事になれば、とてもじゃないが「質素堅実」には程遠くなる。

 これを「一汁一菜」と呼べるだろうか。



 やっぱりその「一菜」というのは「ひとつ」であるべきだ。

 それが本来なのだと思う。





 例えば汁にしても、種類として汁モノが各種取り揃ってあって、それで「一汁」とできるだろうか。


 豚汁と雑炊、汁には違いがないが、そんなので「一汁」だとしたら、それはどこかおかしい。


 豪華絢爛とまではゆかなくとも、とても質素粗食という感じではない。



 つまり、「一汁一菜」というのは「野菜全般」や「汁」という意味ではなく、あくまでも「一品」ということになる。


 つまりタクアンとか漬物なら、そのたった一種類ということ。

 そうしてご飯と、具の少ないワカメやタマネギの味噌汁。


 それが一汁一菜だと言える。


 「精進料理」というのもあるが、それは決して質素素朴なものではない。

 ふんだんに手をかけたものだ。

 「精進料理」とは「殺生をしない」ということであって、別に粗食である必要はない。




 それなら質素粗食ということでも、タクアンが山ほど盛られていたり、汁がドンブリにふんだんに入っているのではいけない。


 やはり適切な量ということ。

 節度というのが大事になる。

 汁碗にして八分目、小さな皿にタクアンが少し。

 そしてご飯も茶碗にそっと盛って一杯。


 お代わりするのもすこし憚られるはずだ。


 それが目指すべきところなのだ。



 それを「食事」と呼べて、美味しく食べられ、満足できる心持ち。


 それが一汁一菜の求めている境地なのではないか。


 そこには「過ぎる」ということがなく、また「足りる」ということもない。

 あくまで心持ち抑えた加減だ。




 満腹ではもう食べられない。

 その飽食を嫌う。


 少し足りないぐらいがちょうどいい。

 よって「足る」を知る。


 何か出されれば、ありがたく食べられる用意が常にできている。

 人の好意を無にはしない。


 そういう、「ほどほどの状態」でいて、そこに満足を感じられるところには穏やかな気持ちがある。





 もちろん、これは聖書やコーランのようなものだ。

 必ず実践しなければならないという意味でもない。


 一汁一菜というものを知りながら、我々は色々とつまんで、料理して食卓に出してしまう。


 あまりやれないことだが、心にはその命ずるところが刻まれている。


足りるを知り、節度ある中に穏やかさを保つという境地だ。


 それが一汁一菜の心だ。








 だから、坊主が修行するというなら、先に一汁一菜をやらせて、その「中庸」という境地はろくに知らなくても、まず形から入らせる。


 一汁一菜の心を知らない坊主見習いはまず一汁一菜から入る。


 まず実践させ、その心を知らせるのだ。


 武士や男は戦いの日常にいるから、常に「中腰、臨戦態勢」の姿勢である。


 坊主はそうした緊張感から「戦い」というものを除いたところから仏の教えを開眼しようとするものだ。

 だから「坊主にとっての中庸」という区別することは難しい。



それが彼らの修行だ。