茶室へ向かう時、寺でもどこでも、大きな庭を横に眺め、そして踏み石を踏んで向かう。
この踏み石というのが若い頃は苦手だった。
なにしろ歩幅が狭い。
そして置いてある石の間隔がいかにも中途半端に感じるから。
ひとつ飛び越して歩こうとすると撒かれた石を踏んでしまう。
そんなに大股にもなれない。
駅などの階段だとこれが出来る。
ひとつでもいいし、一段飛び越しでもいい。
ところが茶室への踏み石は、どうにもこれができないようにできている。
見てくれのために利便性を損なっているのか。
そんな風に思っていたこともあった。
しかし今はその意味するところがわかる。
主人が、「このリズムで落ち着いてゆっくりといらっしゃい」と、我々客を誘導しているのだ。
すでに門をくぐった時から主人と客の対話が始まっている。
「主人が客をしつけている」とも言える。
茶室にはそれぞれの顔がある。
その流派もあるだろうし、どうして作ったか、その趣向はどうしても出る。
そうして踏み石を配置する時、そこに客がどう歩いて茶室に向かうべきか、客をどう歩かせるかが含意される。
それが踏み石というもの。
だから、中世ではない今なら、逆に茶室を借りて茶会をする。
自分の茶室を持っている人はあまりいない。
それなら、主人はその踏み石の感覚も取り入れないといけないということになる。
この茶室はこういうリズムで使う、そういうことを分かってやらないといけない。
例えば菓子を選ぶこと。
例えば茶器を選ぶこと。
客を選ぶこと。
花を選ぶこと。
しかし茶会が始まって、開けてビックリ玉手箱ではいけない。
すでに客は踏み石を歩きながらどういう茶会になるか想像している。
主人はそれを受ける立場になる。
せわしない部分が出来てしまうと想定するなら、それは踏み石ではどこに当たるか。
歩幅の大きなところ。
そこに立ってみれば庭がどう見えるか。
そうして茶会を設計する。
踏み石や庭を前提にして茶会を組み立てる。
そしてそこに、どう主人として客と対話したいかを盛り込む。
茶会も中世は真剣勝負だった。
サムライ同士、沈黙のうちに対話する必要があった。
我々は周囲の環境や風景にあまりにも無頓着だ。
しかし同じものを他人は見ているのだ。
心せよ。
この踏み石というのが若い頃は苦手だった。
なにしろ歩幅が狭い。
そして置いてある石の間隔がいかにも中途半端に感じるから。
ひとつ飛び越して歩こうとすると撒かれた石を踏んでしまう。
そんなに大股にもなれない。
駅などの階段だとこれが出来る。
ひとつでもいいし、一段飛び越しでもいい。
ところが茶室への踏み石は、どうにもこれができないようにできている。
見てくれのために利便性を損なっているのか。
そんな風に思っていたこともあった。
しかし今はその意味するところがわかる。
主人が、「このリズムで落ち着いてゆっくりといらっしゃい」と、我々客を誘導しているのだ。
すでに門をくぐった時から主人と客の対話が始まっている。
「主人が客をしつけている」とも言える。
茶室にはそれぞれの顔がある。
その流派もあるだろうし、どうして作ったか、その趣向はどうしても出る。
そうして踏み石を配置する時、そこに客がどう歩いて茶室に向かうべきか、客をどう歩かせるかが含意される。
それが踏み石というもの。
だから、中世ではない今なら、逆に茶室を借りて茶会をする。
自分の茶室を持っている人はあまりいない。
それなら、主人はその踏み石の感覚も取り入れないといけないということになる。
この茶室はこういうリズムで使う、そういうことを分かってやらないといけない。
例えば菓子を選ぶこと。
例えば茶器を選ぶこと。
客を選ぶこと。
花を選ぶこと。
しかし茶会が始まって、開けてビックリ玉手箱ではいけない。
すでに客は踏み石を歩きながらどういう茶会になるか想像している。
主人はそれを受ける立場になる。
せわしない部分が出来てしまうと想定するなら、それは踏み石ではどこに当たるか。
歩幅の大きなところ。
そこに立ってみれば庭がどう見えるか。
そうして茶会を設計する。
踏み石や庭を前提にして茶会を組み立てる。
そしてそこに、どう主人として客と対話したいかを盛り込む。
茶会も中世は真剣勝負だった。
サムライ同士、沈黙のうちに対話する必要があった。
我々は周囲の環境や風景にあまりにも無頓着だ。
しかし同じものを他人は見ているのだ。
心せよ。
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