祝い箸というものを考える

2022年1月7日金曜日

古式生活 食事 武士道

 


正月、新年明けましておめでとうございます。

 新しいコロナとともにある時代。ないものねだりをしない。

 それがくじけないコツだと思います。

 しっかりと生きてゆきたいものです。


本年もよろしくお願いいたします。



 さて、日本の正月の習慣には「祝い箸」というものがあります。


 お節料理や松飾りなどについては多くが語りつくされているでしょうが、意外とこの「祝い箸」というのは忘れられている気がします。


 まず、この箸は特別なあつらえで、上下がありません。

 どちらを持っても揃う。向きを考えずに使える箸です。

 それは神と我々が同じものを食べる祝いの場という感覚、正月ならではのものだと言われています。


 しかし実用的な意味では箸の上下を取り回す要がないということがあります。

 銘々に取って料理を食べるのですから箸の向きに気をつけていると慌しいということがあるでしょう。

 また、お正月というハレの場で上下関係にはせめて食事では拘らずにいましょうという、そんなサインでもあったかも知れません。


 この箸は大晦日のあたりから神棚に供えておき、正月には箸袋に入れて出すものです。


 鏡餅は三方の上に乗せて「結界」を作っていますので、そこに置いておいてもいい。

 要は「念を込める」ということ(笑)。

 日本古来から行われてきた「祈祷」に通じるものです。




 そして年が明ければ家の主人が箸袋に各自家人の名前を書いてやります。

 この正月の期間はこれを大事に使うよう命じる、それがカタチです。


 座る場所は古来は決められていました。一族の序列、その家の順序というものがありました。

 大きな広間に二列、家長に向かって家の者が並びます。目の前には膳があります。


 正月の食事が始まるということで座り始めると、各自の膳の前には箸袋がありそれぞれの名前が書いてあります。

 序列が異動することもありましたから、不始末をして序列を下げたなんてことも普通にされていました。


 そうすると今年は自分はここは違うと座り直し、当人は先年の不始末を思い起こさせられるわけです。


 我が国では武家に限らず、家の主人がこうしたことを取り仕切ってきました。


 箸袋はそれぞれ各自のものなのです。

 そうして洗って正月の期間は各自が責任を持って使い続ける。

 始末をつけさせること、新年の最初からこうしたことを肝に命じるのです。


 家長が「お家」を取り仕切ったという、日本の習俗を繁栄してのことでしょう。

 日本の習俗の基本は武家を基本としています。



 その他、あまり今ではやられなくなったことですが、共通の「取り箸」の箸袋には「海山」と書いて、どちらのものも食べてもよいように祈願するとされます。


 それはよく言われるのが「今年一年、海のものも山のものも美味しく食べられるように」、そう祈念されているということです。

 よく言われますがこれはちょっと違うと思います。

 これは取り箸だからです。


 実際、現代でもよくあることですが、鍋をやるときに肉用の取り箸と野菜用の取り箸と分けている場合があります。

 肉を触った箸で野菜を触ると不潔だからです。


 これを考えると分かりやすいと思います。


 日本はそうした食事でのケジメがしっかりしています。

 生魚を食べる習慣がありますから、そうした区別は当然に厳しくなりました。



 ところが、正月に関しては、肉も野菜も魚もちゃんと調理され、いわば保存食になっているものです。

 しかも料理は鍋のように誰かが取り分けてくれるようなものでもありません。

 各自が好きなものをお節のお重から取って食べる。お重は回されてゆきます。


 だから、この書き文字は「正月は同じ取り箸でいい」というサインだと言った方が正確だと言えるでしょう。

 現代では「縁起」ということで説明されることが多いですが、意外と理屈にかなったところから始まっているのだと思います。


 こうした祝い箸は正月を無事に過ぎたら、どんと焼きのために神社に持っていって焼くという、そんな祈願めいた風習もあります。


 初詣などで神社に行くと、脇にどんと焼きにくべるための大きな箱が用意されています。

 参拝者が焼いてもらうものを持ち寄って集めておくための箱です。


 覗いてみると、祝い箸が投げられていたりして微笑ましいものがあります。

 みなが無事に正月を迎えられたことが伝わって嬉しい新年の風景です。


 それにしても結局、その祝い箸のココロというのは何か。

 「祝い箸」というのは新年用にあらたまった箸を出すということに尽きます。


 だから別に良い箸でなくともいい。新しい箸でなくともよい。

 ただ「あらたまっていればいい」というわけです。


 箸を新調したり、正月だけに使う箸を出すというのもありますが、その真意としてはやはり「あらたまる」ということが大事。


 では、いったい、この「あらたまる」とはどんなものなのか。

 正月料理とて「あらたまり」ようもありません。

 我々は常に何かしら食べて生きているのです。だから箸で代えるのです。




 例えば、新年は欧米ではクリスマスであり、大晦日は暦だけのものでパーティが開かれるだけですが、日本の場合は節目というのが重要視されます。


 旧暦や新暦、どちらでもこだわりなく節目とあればケジメをつけるのが日本人です。


 だから新年や正月というのはことのほか大事なケジメという意味があります。

 

 それも「あらたまる」ということに通じること。

 「新年あらたまりまして・・・」なんてご挨拶をするものです。


 祝い箸はそんな日本人の心から来た風習であり、身近な「あらたまり」を具象するもののひとつであると言えます。


 それが箸という、食事に普段から使っているモノに込められたというのが、日本的な習俗のキモだと言えましょう。



 箸というのは我々日本人なら誰でも日常的に使っているものです。

 それが「あらたまる」というのはどういうことか。


 だから別に新しい箸でなくともよいのです。

 気分が変わったというのが大事です。

 そして特別な、新年を迎えられたことに感謝し祝う正月料理のための箸。


 だから、「あらたまる」というのは、仕舞っておいた箸を出したり、これまでとは違う箸であってもいい。

 あるいは箸自体を磨いてみたり、少し油を塗って養生してみたり、それで新年用の箸になったりするわけです。


 「これはこうしたものとする」、そう決めるだけでモノが変わる。意味が変わるのが日本の精神です。


 たとえ枯れ枝ひとつでも、それを真剣だと思えばそうなります。


 古くは祝い箸はわざわざ竹や木を切り出して作ったものと言われています。

 が、そうした使い捨てをしなくとも祝い箸の意味をつかめれば納得できるよういくらでも格好がつけられることです。



 この祝い箸を使って正月料理をいただけば、やはり新年の気分、正月気分となるという次第。


 正月料理でなくともそうですが、語呂合わせの御馳走でも気分次第です。普段のものを盛り付けや味付けを変えるだけで十分に正月料理になるものです。


 何もカニだのステーキだのマグロだのを食べなくともよい(笑)。


 ごくシンプルな「粥」にしても、そこに松の葉ひとつを置くだけで正月らしくなるものです。

 そういう機微が我々にはあります。


 結局、我々日本の精神はそうしたケジメ、すなわち「意味づけ」をすることで出来ているのだと言えるでしょう。




 やがてみなが豊かになり、そうしたことより形式的なことが便利に使われるようになりました。

 しかし、日本人はそうした「気分」ということが大事であるというのは心しておきたいことです。


 これは勝負士たちが「ツキ」とか「ゲン」を重んずるというのと共通のことです。


 正月だからとわざわざ挨拶をしてみたり、正月だからと普段は食べつけないものを食べてみる。

 そこに「あらたまった」ことを感じようとする。

 結局は心次第ということです。


 そして、その「ツキ」とか「ゲン」を重んずるココロというのは勝負士、すなわち武士のココロなのです。


 正月料理を大事にし「祝い箸」に気を遣うというのは、我々の中に流れている武士としての矜持、武士としての覚悟に由来していると言ったら言い過ぎでしょうか。


 やるべきことをし、なすべきことを果たす。

 それが我々の使命であり生きている証となります。


 必要な時に馳せ参じ、必要な役割を果たす。

 正道を重んじ、自分を律し、媚びへつらいを嫌悪する。


 それが我々、武士の務めです。



 実はこういうことは古式生活を偲ぶ妄想ということでもありません。


 最近では秋篠宮の長女の婚姻の件がありましたが、あれを問題にしたほとんどの日本人の心には何かが呼び起こされたはずです。


 すなわち、そこには公家の紊乱をいさめようとする武士のココロがあったのだと言えます。


 人を見て自身を正す、もしそう言うなら、アレなど最悪のワガママであり淫蕩であり放蕩でありましょう。


 アレは、我々日本人の武士としての魂を鼓舞させたのかも知れません。


 相応しくない公家の婚姻に武士らしく国民が苦言を漏らした事件だったと言えます。


 ケジメもなく渡米していったあの夫婦は「島流し」のようなものでした。

 事実、ニューヨークはマンハッタンは島です。冗談にもなりませんが(笑)。