「ご馳走」などと云う。
あることのために「走り回ること」の意味であり、転じて客に供応をして料理をふるまうことを言った。
料理をふるまうために走り回ったからである。
「馳走する」とは、食事を中心とした「もてなし」をする意味である。
「料理をふるまうために台所を走り回った」というのは現代の環境からは分かりにくい。
今のように設備や収納が整っていない時代である。
水道もガス、電気もない時代のことだ。
たとえ位の高い者が人をもてなすにしても大変なことだった。
まず第一に、供応は「待たせる」ということをよしとしない。
馳走するのに待たせては本末転倒である。
こちらの都合に合わせて食事を提供したのではいけない。
食事が供応となるのは、こちらが相手の呼吸を読めることを示すからである。
相手の食事のペースに合わせて阿吽の呼吸で次のものを出せること、そうした配慮が出来るかどうかが品定めされる。
それが信頼のしるしとなったからに他ならない。
配慮が人にできるかは信頼関係のためには重要な要素だった。
食事を客に出すということは、相手の力量がよく分かるものだ。
世界の異文化でも、「手料理を相手にふるまう」というのは同様の意味を持っている。
ファミリーに自宅にに招待されれば手料理が出るものだし、食事の提供の仕方は厳しく見られるものだ。
「同じ釜のメシ」という共同体感覚というのは万国共通のものだと言える。
昔のことだ。
魚なら井戸水で冷やしておき、水代えも必要だったろう。井戸の傍に桶の中に入れて置いておく。
野菜も同様。
そして包丁などは家の外で振るわけにはゆかない。
刀と同様に刃物は神聖なものだ。
だから台所で始末をつける。
水場と台所を往復し、客の食事の進捗さえ覗きに行かねばならない。
そういう裏方の慌しさでなく、直接、主人と客が相対峙して向かい合うというのが茶道である。
最初から決められた所作のもとで茶を出すのだから、走り回るようなところはない。
また煮物や炊き物は薪で火をくべ釜で調理した。
その煙のために火を使う場所は所定の位置にある。便利なように都合よくガス管が引かれているわけではない。
仕舞われていた陶器、漆器、器類は棚に仕舞っていただろう。
それらを膳に並べ、ちょうどよいタイミングで全ての料理を揃える。
そうしてあれもこれもとやればどうしても走り回ることになる。
あらかじめ段取りを整えていても、忙しく支度をすることになる。
馳走するには裏方の忙しい苦労がある。
我が国の伝統として正月の「おせち」というものがあるが、それはこうした「馳走になる」ような料理とは全く逆のものだと言える。
師走で人が忙しくその年の所用の片付けをし、新年を穏やかに過ごそうとする。
家人が正月ののんびりした休日を休息し、料理などに手をかけて走り回らなくて済むように工夫された保存食のアソート。
それが正月の「おせち」である。
それでいて新年を迎えた気分を豊かに過ごせるよう、豪華さや目を楽しませる盛り付けであればそれはそれで楽しみである。
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