相手の必ず目を見て頃せ

2019年12月31日火曜日

武士道

 最近、よくアメリカの兵隊が帰ってきてPTSDになったという話がある。

 ベトナム戦争の頃よりもてきめんな率なのだそうだ。

 アフガンに行ったかイラクかは知らないが、戦場体験がトラウマになって苦しみ、自ら命を立つ者もいる。



 頃す時に相手の目を見ていないからいけないのだ。



 遠くから爆撃やら何やらで大規模に被害を与える。遅れてそのガレキの現場に踏み入ってみれば、トラウマにもなることだろう。

 人間がゴミか何かのようにバラバラになっている。

 それは相手の見えない戦争だ。

 そして、同じように次は自分がどこから襲われるか分からない不安に駆られる。




 戦いとは、ともに正対し、相手の目を捉え、その絶命まで見届けて頃すのだ。

 それが闘うということだ。


 その最後、まだ命のともしびがくすぶっている間も、きちんと相手の目に自分の姿を焼きつかせてやること。


 そのような態度は単に命を奪い合うことを超越した尊敬でもある。


 
 命が奪われる者の最後をしかと見届けるのだ。そうでなければ自分の番だった。



 そうしてお互いに戦うということをするなら、自分にストレスが返ってくるということはない。




 中世のサムライはみながそうしていた。必ず相手の目を見て頃したのだ。トドメをさした。



 我々はいつしか安直に流されるようになった。


 戦いの精神と魂を忘れ、命を奪うことに対する畏敬の念をむしろ踏みにじるようになった。

 それは責任を回避するように見えて、実は深刻なダメージを戦士に与えている。



 そういう、安直になったゆえの恨みがあるとしか言いようがないが、所詮は近代戦だ。