名札、表札

2020年3月30日月曜日

武士道

 古い人間ならいざしらず、名札みたいなものを嫌う人は今はあまりいないだろう。

 首から入館証を下げさせるところは普通だし、そこには顔写真や名前が入っている。

 それを得意げな顔でぶら下げたままにしているのがいるが、みっともなく感じてしまう。



 ビルに入館するためのセキュリティということはあるだろうが、そういう名札のようなものを嫌う気持ちがまるでなくなったことは、サムライのココロが失われていることであり、嘆かわしいものがある。

 自分はどこぞの飼い犬であると、公然とその立場を晒しているようなものだからだ。




 昔は、生徒でさえ名札をつけさせられるのを嫌ったものだ。

 ちょっと外に出ればすぐに裏返したり、ポケットにしまってしまったり、とにかく名札に振り回されるのを直感的に嫌ったものだ。


 いちいち名前を詮索する大人を訝った。




 武士は名札などつけなかった。

 人の名前というのはその人の顔とともにあり、家柄とともにあり、殿とともにあるものだ。

 自分はどこの誰それだと自己紹介をすれば誰もがその者の存在を覚えた。



 だが近代になると、管理するための都合から名札というのをつけさせて、管理しやすいようにする需要が出てくる。

 大量消費、集団社会、大衆という群れだ。


 名札というのは多いにその役に立った。



 しかし、それは逆に言えば、名札をつけさせられるような人は普通はなかなか覚えてもらうことができず、中身まで詮議されるということもない。

 足軽どころか、町人風情の扱いを最初からされているということになる。


 これに怒らない者などいたら腰抜けでしかない。



 戦国時代の前は、いちいち斬り合うにしても前線の兵士たちがそれぞれ名を名乗りあって斬り合ったものなのだ。


 表札にしてもまたしかり。

 町人や商売人ならいいが、表札を家にかかげて悦に入っている武士などいなかった。



 住んでいる家と自分がなぜ結び付けられねばならないのか。

 生きる証は自分自身。

 余計なものに自分を投影されては迷惑である。



 現代の我々は、武士の矜持を我々は失ってはいまいか。


 お仕着せされることに、我々はもっと反発すべきである。

 それは決して我侭ではない。

 恥を知るということでもある。

 だからコロナウィルスに感染したからといってバラ撒いてやるなんてことは考えなかった。


 恥ずかしい人間でないかどうか、それは名札では分からないその人の存在なのだ。


 だから責任というものを持つ。