結界

2020年8月22日土曜日

古式生活 江戸時代

 かつては結界というものがあちこちに見られた。

 神社の祭礼、儀式にあってはしめ縄が地域に張られ、その範囲が神によって守られている領域であることが示された。

 それらは魔や鬼と我ら人間とを分け隔てする境界だった。


 神社という聖なるものの縄張りを決め、そこを我ら人間が守られた住み宿とした。
 そして、そこから外れたモノに一定の場所を与えた。

 善と悪、ハレとケ、境界というものが我が国にはある。


 立ち入ってはならない場所があり、それを言ってはならない禁忌があった。

 わざわざ自由を制限し、領域を定めることで古来の人々は共同体の結束を保った。


 古来、祭りの日には子供がたびたびいなくなり消えた。

 それを神隠しと人は呼んだ。

 祭礼からはぐれた子供を暗黙のうちに断念したことは、生贄として結界の外の魔へ差し出した一種の了解だったと言える。



 その後、このような結界というものの概念をいっそう科学的なものとしてすすめ、近代社会に具体化させ、近代都市である「帝都東京」の礎を造ったのが渋沢栄一だといえる。

 渋沢は株式会社という制度を学び、広くこれを日本に普及させた。

 渋沢は多くの企業の設立に関わり、多くの大学の創設にも関わった。これらの所在地は陰陽学の影響を受けて決められたと言われている。

 関東大震災後の復興にもその感覚が生かされた。

 渋沢翁の感覚は今もこの東京に生きている。


 それは神社が祭事の際にしめ縄を張り、結界を作ったということと同じ発想からの都市設計であったと思われる。


 渋沢がこうした考えについて一切を書き残していないことは、逆にその証左と言うことができる。


 江戸から明治へと渋沢が渡そうとしたものは、いわば時代の結界そのものであったかも知れない。