房というもの

2020年3月14日土曜日

古式生活

房(ふさ)というものがある。

 日本の文化には色んなところに房がある。


 組み紐で編んだ紐を作り、その先をほぐして房にする。

 帯締めでもあるし、相撲では天井からそれぞれ赤房、青房と下がっている。



この房というものにはどんな意味があるのか、あまり語られることはないように思う。


 まとめた紐の端をほぐす。
 
 そしてその部分は細い糸で纏め上げてポンポンのようにする。


飾りだろうか。

 帯締めなどのように結んでその端を折り込む時、ストッパーになって便利だからだろうか。

 単にそのような機能からしているのだろうか。




 帯締めのような、組んだ紐というのは、そのまま見るとまるで作られたような帯と同じに織られたものに見える。

 だがそれは違う。

 帯ならそれは織られたものだ。


 だが帯締めは紐と糸を組んだもの。

 似ているようで中味は違う。


 織り器で織ったものにはそんな房はつけない。



 手で組んだものは、実はそこに人の手が入っているのだということを示すため、わざわざほどき、まとめてこれが無数の糸からなっているものだということを示す。

 房にはそんな自己表現があるのだと思う。


 
 例えば似たもので、活き造りというものがある。

 料理人が魚をさばいて刺身をこしらえる。


 その盛り付けはたいていさばいた後の骨を残して、飾る。
 
 そのままでは食えない頭、オカシラすら残して盛り付ける。


 舟盛りとか、日本旅館などではよくある盛り付けだ。


 あれも同じ。


 どんなにキレイに盛り付けても、実はこの刺身は元々は魚であり、殺生をしてこうなったのだと示す。



 房というものもそのようなものだろう。

 日本語で云う、「おしるし」という言葉に通じるものがあると思う。




 自然界の森羅万象ではとかく痕跡は残されないものだ。

 風が吹いても去ってしまえばその痕跡はなかったりする。


 しかし人間が手をかけたものはその痕跡を伝えようとする。

 人が生きる意味、生きてきた意味を伝えようとするのだ。



 その心だ。