包丁というもの

2020年3月15日日曜日

武士道

 男が、包丁を扱えなくてどうする。


 男が包丁を研げなくてどうする。そう思う。




 武士は刀は研がなかった。

 人を斬って、ダメにしてしまっても、必ずその研ぎは研ぎ師にまかせた。




 それは悔しいが専門でなけばできない。


 だからその反動というか、仕返しのつもりなのか、男は包丁を研いだ。



 なにも料理人だけではない。

 男は包丁やナイフを研いで、そこに魂を注ぐものだ。



 刃物は魂が宿る。

 殺生をし、人を殺す道具を研いで、また次の戦いに備えることには魂がこもる。

 次は自分の番かも知れない。


 そんなことは怖れるに値しない。



 人は生きる意味を見出せれば、そのためなら簡単に死ねる。




 我々日本人、男は武士であらねばならぬ。




 包丁を研ぎ、それによる料理の味に違いがあることを知れ。


 スッと切れる包丁で切ったものと、そうでない包丁で切ったものとは味さえ違う。



 「その切れ味が味にまで及ぶ」、という言い方はとても象徴的なことだ。

 気に入らないから斬ったのではない。
 
 理由があったから斬ったのだ。
 
 だから、その切れ味はそれに似つかわしいものでなくてはならないはずだ。




 サムライの「スモーキング・ガン」だ。