包丁を研ぐ

2020年3月19日木曜日

武士道

 刀というのは必ず研ぎ師にやってもらうものだ。


 だから昔も、包丁を研ぐということは武士たちは好んでした。

 それは女性的な「台所」という話ようなではない。


 「男子厨房に入り浸る」などと言われたのは昭和の話だ。

 明治の頃、男子というものの自意識の発揚が氾濫し、そういう話になっただけのことだ。

 女々しい男は国を危うくする。そういうドグマから来ていたに過ぎない。



 昔は魚をさばくのは男の役目、殺生をするのは女房ではなかった。




 包丁を研ぐにはまず荒砥でデコボコを取り、ゆっくりと番手を上げていきキリリキリと刃を研ぎ澄ましてゆく。

 最後は髪の毛が縦に裂けるような切れ味を楽しんだ。

 それは日本的な男性的な趣味と言えるだろう。



 それは趣味と言ってもいいぐらいのものだ。



 刀研ぎは難しい。

 道具も大掛かりになる。

 そして失敗は許されない。



 だから、手を出せない武士は、そのために手近の包丁を研いでみて、擬似的に刀を研ぐことの意識、その発散をしたということ。

 それこそ、命の刀をなまじに研いでしまっては申し訳の開きようがない。




 そんなことを考えてみると、現代の今も、男たちは包丁を研ぐことに夢中だ。


 自然の研ぎ石は高価な値段がついているし、その研ぎ方の手法にすら男たちはこだわる。

 雲だのを求める人さえいる。


 それは、武士の魂が、深いところで日本男子の心に根付いていることの証でもある。


 包丁とて殺生をする道具なのだ。


 それを研いで我が物としないでどうする。



 キリスト教的に、食事の前、「我々に与え下さったこの命に感謝します」とする。

 それは殺生したことをタブーとし、目を背けていることだ。


 我々日本人は、奪った命に感謝する。


 その違いは途方もない。