人の足元を見る

2020年7月26日日曜日

古式生活 江戸時代 所作

 「人の足元を見る」という言葉がある。

 それは「人の弱みにつけこむ」あるいは「人を値踏みする」というのが真意だ。


 江戸の人々はほとんど徒歩で移動した。

 参勤交代や色んな制限があったことが功を奏し、江戸時代は逆に人々の移動が盛んだった。

 それがよく経済を回した。
 何事も循環し、よくまとまった国だった。


 品川などの大きな宿場町には駕籠かき人足がたむろしていて、今のタクシーの客待ちように客を待っていた。

 客はやっとたどり着いた大きな宿場町から、いよいよ目的地を目指す。

 途中の山道、街道筋は疲れたからと駕籠かきを頼むことはそうそうはできなかった。

 需要がなければそこに待機するはずもない。
 だから大都市の入り口に駕籠かきは構えた。


 値段は言い値で交渉する。今の途上国でのタクシーのようなものだ。

 その時、駕籠かきは旅人の足元を見た。

 旅人が疲れていればふらふらしてその足取りは覚束ない。

 すぐにでも駕籠に揺られて落ち着きたいだろう。

 だから料金を吹っかけた。


 それが「人の足元を見る」という言葉の始まりだとされる。

 しかしこれはネクタイで人柄が見られるとか、靴を見られて身分を詮議されるということと同じものだが、違う意味での「人を値踏みする」という意味もあった。

 「足元」は「足許」であり、「脚下」でもある。

 江戸時代は身分制度であったから、所作はそれぞれの身分に応じて決まっていた。

 できることとできないことが分かれていた。

 身につけるものにも制限があった。


 それは今の相撲を考えれば、その歴史が残っている。

 十両以下は関取とは呼ばれず、土俵入りもない。「前褌(マエミツ)」は糊がつけられておらずふにゃふにゃだ。
 大銀杏を結うこともない。

 その足元、草履や足袋すら身分を反映したものであった。

 だからどんなにみすぼらしい格好をしていてもその足元の所作、身につけているモノの流儀で身分が分かった。



 足元を見れば礼を尽くす相手かどうかは分かる。

 相手に応じて話をしなければ斬られることさえある。


 「人の足元を見る」という言葉が、商売のコツだけのような故事になってしまったのは、成熟した江戸文化の所以だ。

 言ってみれば近代化が進んだためだ。

 人には、厳格な上下関係や身分があり、それは脚捌きにまで反映されている、またそうでなければならないという意味もあるのだと思う。



 このことは、同じよく誤解をよくされる言葉を例に出せば分かってもらえることだろう。

 「健全なる魂は健全なる肉体に宿る」というギリシャの言葉がある。

 正しい訳は、
 「健全なる魂よ、健全なる肉体に宿かれし」と、その期待を込めた言葉というのが本当だ。

 
 こんな風に捉える人々には誤解がある。

 これを同じように捉えれるなら「人の足元を見る」ということは何か。

 人は身分相応の足捌き、所作をしていなければならない。また、そうあるべきだ。


 そんな風にも聞こえないだろうか。