印のこと

2020年7月3日金曜日

古式生活 江戸時代

 江戸時代、印鑑というものはあまり使われなかった。

 手書き文字でサインをして通用したというのは、主に大名や役人、社会階層としてはどちらかと言えば上層の人々でのことだった。



 「直訴状」とか「血判状」などを出す時、庶民が「自分が認めた」「自分の責任においてこれを出す」という、その証としての印鑑は主に血判が使われた。

 自分の指を切って、その血で指紋を残すということだ。


 その昔、当時、指紋がそれぞれの個人に固有のものであると知られていたのだろうか。

 もちろん、その血でDNA鑑定をするなどありようがない。

 指紋を重視したのだろうか。

 その知恵には驚かざるを得ない。


 今の日本はこれを引き継いで、印鑑、ハンコを中心とした社会だ。

 このことを否定して「時代遅れだ」という言説があるが、それは間違いだ。


 我々は裁判の原告、婚姻届、それぞれの場面で印鑑というものを必要として使っている。

 印鑑を使う必要がある。


 それは非効率に見えて実は効率的だ。
 なぜなら、それは「自分の意思で押した」という証明であるからだ。


 欧米の「サイン」というものもそうだろう。

 しかしサインというものは、真似が出来たりする。


 偽造が出来てしまう。
 そしてその鑑別は極めて難しい。
 欧米ではよくそのことが裁判で問題となる。



 もちろん、印鑑も偽造ができるかも知れない。

 しかし、「印鑑を押す」という「行為」は騙されない。
 陰影を残すということはオリジナルの印鑑から転写されたものであり、それをそのままコピーしても容易にはコピーできない。

 偽造しても識別ができてしまう。


 だから、銀行や証券会社は、「印影が不完全」などと言うことはあるが、完全な転写した陰影を要求はしない。


 そして、押印というものには「意思」というものが伺えるものだ。

 こういう手続きを「省略しよう」というのは、愚の骨頂なのだ。

 
 日本の効率的で合理的な文化を廃れさせてはいけない。


 よく「シャチハタ印はダメ」なんてことが言われた。

 一世を風靡したシャチハタ印鑑というのは、単なる印刷したハンコだ。

 陰影は常に鮮明であり、一種のスタンプだ。

 だから「ダメ」なのだ。



 「手彫り仕上げ印鑑」というものがどれだけ役に立つものか、現代の我々は改めて知っておく必要がある。

 それは江戸時代の、「血判」に近い役割、それに通じる役割があることだからだ。

 婚姻届にしても登記にしても、口座開設にしても、自分の意思の痕跡というものを大事にするなら、よいものを選ぶべきかも知れない。