我々日本人にとって、邪悪さや悪魔というものはあまり近いものではない。
この現代の日本においてもそれは同じだ。
これに対して、キリスト教徒、アメリカ人などは「悪魔」という言葉に反応し、怖れる。
キリスト教徒は悪魔を怖れる。
織田信長が比叡山を焼き討ちにした時、彼は恐ろしいほどの力を見せつけ、神も仏をも怖れぬ所業だと恐怖されたが、そこに邪悪さを感じた者はいなかったはずだ。
チカラだけではできないことがある。
意思の強さというものがあり、それは敬意をもって見られる。
もちろん、当時の比叡山はテロ集団に発展しかねない生臭坊主の集まり、とんだ無頼の集団ではあったが。
日本では古今東西、悪魔的な感覚というのはないと言ってよい。
我々にはそのような概念はない。
どんなに残忍な所業でも、それは我々からすれば「戦国時代」のことでしかないし、神に対しての悪魔という相対的なものがあるわけではない。
「邪悪さ」というものについてあえて言えば、それは「穢れ」と言える自然界にあるような何かはあったかも知れないが、そのような不埒なものはヤオロズの神がたちどころに吹き飛ばしてくれた。
神は我々人間と共存している。
そしてそれは、「魔」や「邪」についても同じことだった。
そういう神への信頼というものが日本人の信仰心だった。
もともと我々日本人は、人間としてあること、自分の存在に不安を持たず、安心して生きてきた民族なのだ。
だから「魔」や「邪」への畏れより、そうしたものへの哀れみ、むしろ慈愛というものさえ持った。
代表的なもので「我々人間とは違うもの」として「鬼」というものがあった。
鬼は人間世界から分け隔てされ、いわば疎外された存在としてある。
彼らは哀れみとともに扱われてきたものだ。
穢れの類や鬼というものは人間と棲み分けがされていた。
そして配慮され、敬意とともに尊重もされた。
あたかも隔離するようにして「禁忌」としてそっとしておかれたのだ。
それを踏みにじるものは許されなかった。
だから日本では「祟り」という言葉は、「悪魔からの攻撃」を意味する言葉ではない。
それは失礼な人間が蒙る災いという意味だ。
自業自得であり、調和を乱したことには必ずしっぺ返しがある。
キリスト教の考え方にあるような「神と悪魔の千年戦争」というようなものを想定したものは日本にはない。
神は我々人間とともに生きており、神々は我々と同じ仲間だ。
しかし果たして、布教によってキリシタンとなった者たちはどうだったのか。
彼らは価値観の転換を成し、人間と神を相対するものとして捉える考え方を身につけたのだろうか、そこは少し疑問に思う。
だが、キリシタンへの苛烈な弾圧があったことは、多少はそうした価値観の転換により異人種になってしまったところがあったのかも知れない。
それが現代まで継承され、日本人の「異種を忌む」というところにつながっているのかも知れない。
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