友、友人というもの

2020年8月6日木曜日

古式生活 江戸時代

 我々日本人というものは古来からことごとく独りであった。
 日本人は孤独を愛する民族だ。

 孤独であり、孤高であり、肉親に対しても誰に対しても人間は生まれたときから一人の個、独立した者であった。
 幼い頃、早くから織田信長は親元を離れた。信長は人質となっていた家康と幼少に頃に顔を合わせている。そこに哀れみなどなかった。

 古来、どのような場合でも、肉親の元で育たなかったことがその後の性格に影響を与えたということはなかった。

 多くの戦国武将が子供の早い時期からその親の愛を知らずに育った。


 戦国の世はおろか、太平徳川の江戸時代でさえ、誰もが独りでありということが基準であった。


 そして友人などというものは皆無だった。
 ほとんど友人というものはいなかったと言って良い。

 信頼できる家臣であり、仲間や同僚はいたかも知れないが、むやみに群れるということはなかった。しかもそれはあくまで仕事や身分、立場での信頼感でしかない。

 「友人」とはいったいなんだろうかとさえ思えてくる。


 そして一方で、人への信頼はたやすく裏切られるものであり、それを予想できない者は愚かとされた。
 裏切られた者は馬鹿だったのだ。
 卑怯者は唾棄されたが、一方で裏切りにあった者は隙があったとされた。

 他人同士の友情というものはひとときのものであり、友人などと臆面もなく言う今の世は古来の人々からすすれば呆れるほど欺瞞に満ちているように見えることだろう。

 人間は独りで生き、独りで死んでゆく。

 徒な他人への依存心は軽蔑されたほどだ。
 いい男が、男同士、へらへらと連れ立つなどということは軽蔑されたか男色と思われたものだ。


 今のこの世を見るがいい。

 わずかの期間すら我慢できず、意味もなく会合し、コロナ感染を広げている。
 接触し、わきまえることもなく、寂しさに耐え切れず群れる。

 じっとしていることすらできず、その口は軽く、静けさひとつにも堪えられない。

 心細さに口笛でさえ吹く。