そりが合わない

2020年6月28日日曜日

古式生活 武士道

 日本刀は、「鞘に収めること」を当然の前提としている。

 そのままの刃物は「抜き身」と言ってよろしくない。
 恥ずかしく下品、そして卑怯だ。

  一度でも抜いたなら、斬るのが刀という殺人の道具だ。
  それは本来なら西部開拓時代の拳銃でも同じだったろう。


 この「鞘」というのは、日本刀というものが千差万別、個体差があるため、ひとつずつあつらえられるものだ。

  その木は白木で加工もしやすいものが使われた。

  だから、鞘と刀は分かちがたくある。




 戦国の世、あっさりと死んでいった百姓から借り出された足軽などは、おそらく鞘を携えて戦に加わった者は少なかったろうが、それでも刀のための鞘は作られていたはずだ。
  
 その戦があったりして、その後、戦場に落ちていたものを拾って自分のものにしようとする時、たいてい鞘と刀はバラバラになってしまっていた。 

 その後の太平の世で武士となる人々だった。


 刀に合う鞘、合うものを探した。 
 死体の群れ、血の海をかきわけて鞘を捜した。




 刀には、「反り」というのがあってそのフォルムは反り返って湾曲している。

 鍛えられた刀は反り返り、美しい。

 鞘はその刀の反り返りに合わせて湾曲して作られる。
 鞘と刀を合わせてみて、多少緩くても収まったりする鞘もあるが、ピッタリのものでないとガタつきが気になることがある。  

 刀を鞘に入れることすらできないというのでは話にならないが、刀に極端な違いはない。 
 どうにか刀が入る鞘は割合と見つかるものだ。


 しかし、鞘に収まっているように思えても、微妙にガタガタし、落ち着かない。
 静まらないことがある。

 「反りが合わない」とは、刀と鞘がしっくりこないことを言う言葉だ。

 これがやがて人間関係に喩えて言われるようになった。

 だから、「ソリが合わない」とは「反りが合わない」と書く。

 人と人の相性について言われる言葉となった。


 まったく合わないというなら、両者は協働することすら不可能だ。「鞘に収まらない」ほどなら、合うか合わないかの問題ですらない。
 しかし収まるのであればとりあえずしまえる。

 刀と鞘のように、つまりパートナーとなる。

 ただし落ち着きのある関係でいられるかどうかが問題となる。




 太平の世となり、武士が役人となり、武士の仕事は事務仕事へと移った。 

 お互いに刀と鞘、助役と主役が互いにきちんと役割を心得て、収まるところに収まっていることが肝要となった。
 それがどうもしっくりこない場合があった。

 あの人と並んで仕事をしていてもどこかギクシャクする。
 それが「反りが合わない」と称された。

  仕事のパートナーとして鞘と刀を捉えること、それがこの心だ。 

 人を斬るための仕事は鞘と刀で成り立っている。
 決して刀の刃だけで殺すのではないということだ。
 「始末をつけるまで」ということ。



 同じように、鞘と刀についてこれを「パートナー」と考えるなら「夫婦」と考えることもできる。 
 生活を共にし、生きてゆくパートナーだ。世間的にも彼らはしっくりとしていなければならない。鞘と刀でもある。

 この夫婦が喧嘩別れをし、そして和解して再び一緒に生きることを誓う。
 これを「元の鞘に戻る」といった。

 戦場で失われた鞘と刀、その片割れ同士が、お互いを見つけ、再びまた元に戻るということだ。



 「反りが合わなかった」などと、夫婦関係について表現されることはない。
 夫婦の契りはいい加減なものではない。
 ガタガタするのを我慢できるかどうかではない。
 夫婦は必ずピッタリとあっていなければならないからだ。

 逆のことも言える、「元の鞘に戻った」ということがパートナーや相棒に言われることはない。
 同僚同士の諍いや相性の悪さが解消されることは決してない。

 一度ケチのついた信頼関係は修復できないということだ。


 鞘は相方であり、刀の刃はそれを仕舞うものだ。
 だから諍いなど元より何もないはずのものだ。

 ただ刀が暴れないよう仕舞うだけ。

 そして、そうした「元の鞘」は、そうそうない。

 いくらでもそこらに落ちているわけではない。