日本刀は、「鞘に収めること」を当然の前提としている。
そのままの刃物は「抜き身」と言ってよろしくない。
恥ずかしく下品、そして卑怯だ。
一度でも抜いたなら、斬るのが刀という殺人の道具だ。
それは本来なら西部開拓時代の拳銃でも同じだったろう。
この「鞘」というのは、日本刀というものが千差万別、個体差があるため、ひとつずつあつらえられるものだ。
その木は白木で加工もしやすいものが使われた。
だから、鞘と刀は分かちがたくある。
戦国の世、あっさりと死んでいった百姓から借り出された足軽などは、おそらく鞘を携えて戦に加わった者は少なかったろうが、それでも刀のための鞘は作られていたはずだ。
その戦があったりして、その後、戦場に落ちていたものを拾って自分のものにしようとする時、たいてい鞘と刀はバラバラになってしまっていた。
その後の太平の世で武士となる人々だった。
刀に合う鞘、合うものを探した。
死体の群れ、血の海をかきわけて鞘を捜した。
刀には、「反り」というのがあってそのフォルムは反り返って湾曲している。
鍛えられた刀は反り返り、美しい。
鞘はその刀の反り返りに合わせて湾曲して作られる。
鞘と刀を合わせてみて、多少緩くても収まったりする鞘もあるが、ピッタリのものでないとガタつきが気になることがある。
刀を鞘に入れることすらできないというのでは話にならないが、刀に極端な違いはない。
どうにか刀が入る鞘は割合と見つかるものだ。
しかし、鞘に収まっているように思えても、微妙にガタガタし、落ち着かない。
静まらないことがある。
「反りが合わない」とは、刀と鞘がしっくりこないことを言う言葉だ。
これがやがて人間関係に喩えて言われるようになった。
だから、「ソリが合わない」とは「反りが合わない」と書く。
人と人の相性について言われる言葉となった。
まったく合わないというなら、両者は協働することすら不可能だ。「鞘に収まらない」ほどなら、合うか合わないかの問題ですらない。
しかし収まるのであればとりあえずしまえる。
刀と鞘のように、つまりパートナーとなる。
ただし落ち着きのある関係でいられるかどうかが問題となる。
太平の世となり、武士が役人となり、武士の仕事は事務仕事へと移った。
お互いに刀と鞘、助役と主役が互いにきちんと役割を心得て、収まるところに収まっていることが肝要となった。
それがどうもしっくりこない場合があった。
あの人と並んで仕事をしていてもどこかギクシャクする。
それが「反りが合わない」と称された。
仕事のパートナーとして鞘と刀を捉えること、それがこの心だ。
人を斬るための仕事は鞘と刀で成り立っている。
決して刀の刃だけで殺すのではないということだ。
「始末をつけるまで」ということ。
同じように、鞘と刀についてこれを「パートナー」と考えるなら「夫婦」と考えることもできる。
生活を共にし、生きてゆくパートナーだ。世間的にも彼らはしっくりとしていなければならない。鞘と刀でもある。
この夫婦が喧嘩別れをし、そして和解して再び一緒に生きることを誓う。
これを「元の鞘に戻る」といった。
戦場で失われた鞘と刀、その片割れ同士が、お互いを見つけ、再びまた元に戻るということだ。
「反りが合わなかった」などと、夫婦関係について表現されることはない。
夫婦の契りはいい加減なものではない。
ガタガタするのを我慢できるかどうかではない。
夫婦は必ずピッタリとあっていなければならないからだ。
逆のことも言える、「元の鞘に戻った」ということがパートナーや相棒に言われることはない。
同僚同士の諍いや相性の悪さが解消されることは決してない。
一度ケチのついた信頼関係は修復できないということだ。
鞘は相方であり、刀の刃はそれを仕舞うものだ。
だから諍いなど元より何もないはずのものだ。
ただ刀が暴れないよう仕舞うだけ。
そして、そうした「元の鞘」は、そうそうない。
いくらでもそこらに落ちているわけではない。
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