「穏やかに過ごす」と、人が言う。
よく隠棲した老人がそういう望みを口にしたりする。
しかし穏やかさとは呆けてしまうことではない。
そういう時、我々が大事にすべきこととは所作なのだと思う。
本を読んだり、手仕事をしたり、保存食の仕込をしたり、庭木の手入れをする。
それも確かに穏やかな暮らしだろう。
この雑音の多い世の中で、心を乱さされないうちに過ごすこと、それは確かに穏やかで、たおやかな時間だ。
しかしそれは「何かをする」ということには変わりない。
本を読めば何かを感じるものだし、手仕事をすれば熱も入ってしまう。庭木の成長や美しさに驚かされることもあるし、残念に思うこともある。
つまり何にをもって穏やかに過ごしているとできるか、何も晴耕雨読とは限らないのではないか、そう思う。
大事なのは「自分の所作に注意する」ということではないか。そう思う。
自分の体の動きを大事にし、感覚を透明なものにして自分というものを感じる。
自分の存在を確かめながら動く。
自分の体躯、その動きを感じながら。
その所作を見つめることの中に、心の穏やかさがあるのだと思う。
穏やかな心とは平常心ということでもある。
だから決して暇や無為徒食を意味しない。
そうと決めれば、その場で人を斬れるぐらい。
殺気を出さないというのは誰もが体得したい境地とされる。それが平常心だ。
「我を知る」とは己の所作を見つめることなのだと思う。
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