「穏やかに過ごす」ということ

2020年6月18日木曜日

自律神経 武士道

 「穏やかに過ごす」と、人が言う。

 よく隠棲した老人がそういう望みを口にしたりする。

 しかし穏やかさとは呆けてしまうことではない。


 そういう時、我々が大事にすべきこととは所作なのだと思う。


 本を読んだり、手仕事をしたり、保存食の仕込をしたり、庭木の手入れをする。


 それも確かに穏やかな暮らしだろう。
 
 この雑音の多い世の中で、心を乱さされないうちに過ごすこと、それは確かに穏やかで、たおやかな時間だ。

 しかしそれは「何かをする」ということには変わりない。

 本を読めば何かを感じるものだし、手仕事をすれば熱も入ってしまう。庭木の成長や美しさに驚かされることもあるし、残念に思うこともある。

 つまり何にをもって穏やかに過ごしているとできるか、何も晴耕雨読とは限らないのではないか、そう思う。




 大事なのは「自分の所作に注意する」ということではないか。そう思う。


 自分の体の動きを大事にし、感覚を透明なものにして自分というものを感じる。

 自分の存在を確かめながら動く。
 自分の体躯、その動きを感じながら。

 その所作を見つめることの中に、心の穏やかさがあるのだと思う。

 穏やかな心とは平常心ということでもある。


 だから決して暇や無為徒食を意味しない。


 そうと決めれば、その場で人を斬れるぐらい。

 殺気を出さないというのは誰もが体得したい境地とされる。それが平常心だ。

 「我を知る」とは己の所作を見つめることなのだと思う。