外食でもいい。客に呼ばれたとしてもいい。
我々はそうして、人に食事を出してもらうことがある。
出されたものに手をつける。
感謝し、礼節を持って応じる。
そこには時には薬味などがあって、それを自由に使えるようにされていることがある。
この時、出した女中や店主の目の前で薬味に手をつけること、調味をすることは実は失礼なことだ。
客だからとまるで当たり前のように、平然とそれをやってはいけない。
我々は、食事を注文して出してもらうからと、サービスを受ける側として現代の我々は考える。
しかし実はそこで「主人」というわけではない。
茶の道から言えば、茶を出してくれる側が常に「主人」ということだ。
この時、主人の流儀に従うというのが当然の掟だ。
我々は招かれ、あるいはその主人の茶席にいるのだから。
そうすると、主人の所作に合わせなくてどうするのかということになる。
主人の出したものに、こちらがわざわざ色をつけて穢してどうするかということになる。
すなわち、勝手な振る舞いは敵対的ということになる。
許されることではない場合もある。
相手に対し、我々が敵意を見せた、敵意があるということになってしまう。
今、確かに今の世は戦国の世ではないとしても、実は本質はそういうものだと理解しておくべきだ。
料理などを、たとえ外食のサービスで注文していたとしても、勝手気ままに自分の流儀に変えているようではいけない。
薬味や調味料にしても、せいぜい主人が去っていった後にひっそりと使うのがよい。
主人の作った心、調理人の心を辱めることにならぬようすべきなのだ。
いくら薬味が用意されていたとしても、それは客への誠意でしかないのだ。
そうであれば、客もまた主人に誠意を返す必要があろう。
客は主人の所作、すなわち心を邪魔するようなことがあってはいけない。
これが単に主人への気遣いと思うかどうかは重要だ。
そうではない。
これは「思いやり」ではなく、「敵意になるかどうか」、そう理解できるところが武士道ということに通じることだ。
「常在戦場」である。
ちょっとでも気の障ることになれば斬り合いになるということだ。
今、我々はそんな人を考えて「おかしいヤツ」だと思うことだろう。
ちょっとでも気の障ることがあったからと、ナイフや刃物を持ち出すヤツは狂っている、そう思うだろう。
しかしそれは、実は我々が法というもの、現在の法による支配というもの、秩序と言うものを前提としているから言えることなのだ。
それを我々はこの太平の世でついつい忘れてしまう。
世の中はおかしなヤツもいる。それは事実だ。
だから、いきなり斬り合いにならぬよう、慎重に所作に注意すべきなのだ。
だからこそ言える。
相手が抜いてきたらためらわずに斬れ。殺せ。
その覚悟は逆に、慎重に所作に注意することに通じる。
危険を回避することに通じることだ。
実際、どんなときにも警官や偉いセンセイ、代官がどこかにいて、モメゴトを収めてくれる保証などないのは今も昔も同じだ。
今の我々がつい忘れがちなことだ。
秩序や法など、我々が自主的に守ろうとするからこそあることなのだ、ということを。
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