食事を出されるときのこと

2020年6月25日木曜日

古式生活 武士道

 外食でもいい。客に呼ばれたとしてもいい。

 我々はそうして、人に食事を出してもらうことがある。


 出されたものに手をつける。
 感謝し、礼節を持って応じる。

 そこには時には薬味などがあって、それを自由に使えるようにされていることがある。

 この時、出した女中や店主の目の前で薬味に手をつけること、調味をすることは実は失礼なことだ。

 客だからとまるで当たり前のように、平然とそれをやってはいけない。



 我々は、食事を注文して出してもらうからと、サービスを受ける側として現代の我々は考える。
 しかし実はそこで「主人」というわけではない。

 茶の道から言えば、茶を出してくれる側が常に「主人」ということだ。


 この時、主人の流儀に従うというのが当然の掟だ。

 我々は招かれ、あるいはその主人の茶席にいるのだから。



 そうすると、主人の所作に合わせなくてどうするのかということになる。
 主人の出したものに、こちらがわざわざ色をつけて穢してどうするかということになる。


 すなわち、勝手な振る舞いは敵対的ということになる。
 許されることではない場合もある。
 相手に対し、我々が敵意を見せた、敵意があるということになってしまう。


 今、確かに今の世は戦国の世ではないとしても、実は本質はそういうものだと理解しておくべきだ。


 料理などを、たとえ外食のサービスで注文していたとしても、勝手気ままに自分の流儀に変えているようではいけない。

 薬味や調味料にしても、せいぜい主人が去っていった後にひっそりと使うのがよい。


 主人の作った心、調理人の心を辱めることにならぬようすべきなのだ。
 いくら薬味が用意されていたとしても、それは客への誠意でしかないのだ。
 そうであれば、客もまた主人に誠意を返す必要があろう。


 客は主人の所作、すなわち心を邪魔するようなことがあってはいけない。


 これが単に主人への気遣いと思うかどうかは重要だ。
 そうではない。

 これは「思いやり」ではなく、「敵意になるかどうか」、そう理解できるところが武士道ということに通じることだ。

 「常在戦場」である。


 ちょっとでも気の障ることになれば斬り合いになるということだ。

 今、我々はそんな人を考えて「おかしいヤツ」だと思うことだろう。


 ちょっとでも気の障ることがあったからと、ナイフや刃物を持ち出すヤツは狂っている、そう思うだろう。


 しかしそれは、実は我々が法というもの、現在の法による支配というもの、秩序と言うものを前提としているから言えることなのだ。
 それを我々はこの太平の世でついつい忘れてしまう。


 世の中はおかしなヤツもいる。それは事実だ。


 だから、いきなり斬り合いにならぬよう、慎重に所作に注意すべきなのだ。


 だからこそ言える。
 相手が抜いてきたらためらわずに斬れ。殺せ。

 その覚悟は逆に、慎重に所作に注意することに通じる。
 危険を回避することに通じることだ。


 実際、どんなときにも警官や偉いセンセイ、代官がどこかにいて、モメゴトを収めてくれる保証などないのは今も昔も同じだ。


 今の我々がつい忘れがちなことだ。

 秩序や法など、我々が自主的に守ろうとするからこそあることなのだ、ということを。