胡坐で茶を点てる

2020年6月5日金曜日

茶室でのこと 武士道



あぐら。


先日の話の、先生が変わった作法を披露したことがあった。


 石州流と言っていた。


 確か石州流と言っていた覚えがある。


 上田宗箇の宗箇流が武士の茶道と聞いた覚えがあって、変わった所作、独自のヒネったような作法が多かったから、もしかするとそちらだったかも知れないが、耳には石州流と言ったのが残っている。




 茶を入れる時、先生はあぐらをかいて茶を点てた。


 こちらはもともとあぐらをかいている。


 板張りで座布団もないのて自然とそうなった。


 先生は火鉢のヤカンを取って、床の敷物に一度置く、取った手を持ち替えて湯をそそぐ。
 あぐらのまま手を使ってこちらに向きを変え、立てた茶を出してくれた。


 先生は酒を断っていたので会うとたいていはお手前になった。






 茶を出しながら、こういうやり方もある。昔はこういうやり方だったと言っていた。


 確かにどこでも畳だったはずもない。




 正座だとさっと立ちやすいから、逆に武士同士なら油断がならない状態だとも言える。




 ドッカリと腰を下ろさせて話をするなら胡坐(あぐら)の方がいいと思う。お互いに敵意はなくなる。




 日本だけでなく胡坐は仏教からの普通の座り方だ。


 利休の頃も胡坐で茶を点てた方が日常だったという話もある。


 なにしろ昔の人物の絵で正座というのはあまりない。







 そうして先生は茶を出した時、ちょっと得意げな顔をしてみせた。
 どうだ不思議な所作だろうというわけだ。




 人懐っこい人だった。


 修羅場を知っている人かと思っていたが、実はそうでもなかった。


 人に勝手な思い入れをしてしまうと裏切られる。


 そういう、所作で自分を大きく見せたり懐を深く見せたりすることは茶道ではよくあることだ。


 すっかり騙されていた(笑)。




 所作があるという前提だから見るのであって、コーヒーや紅茶をどう出してくれたかなんて人はあまり注意しない。


 注意深い人なら細かいことにも気がつくものだが、誰にでも気づかせる、見させるというわけにもゆかない。


 その点、お茶は所作を相手に見させ、その中で意思を伝えることができる。


 便利であるし奥深いものがある。