分かりやすいのは茶室で言われることだ。
茶室での一服を「出逢い」と称し、これを一期一会などと言った。
巷ではこの言葉は、偶然の出逢いに感謝しろなどというニュアンスで言われるが、それは私は違うと思う。
いつなんどき、別れるかも知れない。
そういう覚悟についての言葉なのだと思っている。
なぜなら茶室は一種の戦いの場でもあったからだ。
この言葉は、武士道としての覚悟、戒めの言葉だと理解している。
茶の先生がいて、彼とは数十年来の付き合いがあった。
よく親しくし、遠くに近くにと顔を合わせた。
若いときからよく教えをいただき、私は敬意を持っていた。
ある時、近親者の結婚式があるというので呼ばれたのだが、それを私は避けた。
何かの彩りだかなんだかに思われたのか、所要を理由に出席を断ると、拘ってきて、しつこく出席を要求してきた。
ペテンのようなものに巻き込もうとしたのだろうと思った。
いかがわしいズルい人間にとって私のような人間でも必要だったのだろう。それがまた私に嫌悪感を抱かせた。
自分が彩り扱いされるなど、とんと御免だった。
失礼がないようにと、丁重に「所要がある」と断ったのだが、向こうはそれは五月蝿かった。
その拘りには逆にいかがわしいものを感じた。
ろくでもない人間であることは明らかになった。
人間のクズ、そういう汚らしい人間が得意げに披露するセレモニーに己が利用されるのが分かっていてわざわざ乗る馬鹿もいない。
それに利用されるのはまっぴら御免だったというだけだ。
すると、どうやらどこかツテを探そうとして、件の先生に泣きついたのだろう、先生から連絡が来て、「葬式と結婚式ぐらいは出ておけ」みたいな妙な理屈で先生から説得があった。
私はひたすら固辞し、穏やかに、ともかく今回ばかりは所要で出られないとだけ断った。
しかし先生は呆れるぐらいにしつこく人の判断に影響を与えようとしてくる。
これにはまるで別人のような気がしたものだ。
君子豹変す。
もちろん、こちらは何かの用事だとかしてこじつけてはいたが、真意は伝わっていたはずだった。
先生の体面ということなのか、こちらに出席を強要をしてきた。
ますますこれはできないと思ったものだ。
とうとうその先生、こちらを動かせないと思ったからなのかどうだか、「ではお前との付き合いもこれで終わりだ。それでいいか。」と言う。
なんということかと、これにはガッカリしたものだ。
馬鹿らしい理由で付き合いを止めるのだと脅しつけてくるその小市民的な発想に絶望しかけたものだ。
覚悟のなさ、人の覚悟に対する理解のなさ、人の決意に対する敬意のなさにほとほと呆れたものだ。
残念ですがと、私はそのまま電話を切った。
結局はこのお方もつまらぬ人間、紛い物であった。
もともとはクチばかりで抜き身の覚悟などなかったのだと知った。
他人のために人の血が流れたことさえ間近に見たことがないに違いがなかった。
それから一度も連絡はしていない。
すっかり切れたと思っている。
口先だけではダメということだ。それは変わりはない。
言葉には魂が宿る。それを裏切るなら自らが堕ちたと知れ。
堕ちた者にわざわざ声をかける者はいない。それは愚かな哀れみでしかない。
言葉に責任を持て。
もてない者は取るに足りない者でしかない。
私は常にそう自戒している。
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