ケジメ、結界

2020年4月9日木曜日

武士道

 蕎麦をすすった汁が残ったら、それをまた鍋に戻して料理を作るということはしない。

 だから蕎麦は音を立ててすすり、食べ残しは汚物として捨てる。



 使い回しのようなことは独身時代の一人、子供の頃に戯れ事としてやったことはあるが、それだって自分だけのためでしかなかった。

 人に出すなんてことはしなかった。




 鍋なら残り汁は使う。

 家人と二人で鍋をつついて、そして鍋汁は味噌汁にと、ダシが出たものとして転用する。

 それは鍋を汚らしくつつくものではないからだ。



 こういうのは「使い回し」とは言わない。


 それはケジメがつけられたことだから。

 家人との間の関係、家族というもの、その線引きがあるものだから。




 キレイと汚いというのが厳密に分けられた文化に私たちは生きている。
 
 それがケジメということだ。

 不潔か清潔か、

 不浄なものとそうでないもの、

 穢れとそうでないもの。

 日本の文化は「結界」などの明確な線引きさえして、そのような対立するものを区別してきた。


 今、その区別をさせないように心を歪めようとする者がいる。彼らにとってはその区別こそが不便だから。




 得体の知れない、「魔」のようなものさえ居場所を与えてきた。

 その心は我々日本人の心だ。

 そこに付け入ろうとする者をゆるすな。



 敬意を捨てず、畏敬の念を忘れず、我々は森羅万象にさえ愛情を注いでいる。

 我々という内なるものと外というもののケジメ。



 それが結界と言う心だ。

 だから我々は流用したり、残ったものを活用することを恐れない。




 コロナウィルスにしても、我々は何もおそれる必要はない。


 疫病ごときで止まってどうする。

 疫病を避けるお達しにストレスを感じ、わざわざ人混みを求めてどうする。


 死にたくないなどと考えていれば死が訪れるものだ。

 なすべきことをなせ。

 武士道はそれを教えている。



 強固な文化のもと、我々は守られて生きている。

 それが信じられず、ひたすら何かにすがろうとするしかないのなら、もうすでに死んでいるも同然なのだ。