書というもの

2020年4月26日日曜日

古式生活


 床の間に掛け軸を飾る。

 書を飾る。来客のために交換したりする。




 それはいつも身が引き締まる思いだ。


 その字は読みにくいが、たいていは決まりきった箴言だったりするから、意味は通る。


 実は掛け軸の書はは交換するものだ。



 時々別なものを引っ張り出して架け替えたりする。


 あまりそれは言われない。

 裏方のことだからあまり言うのはみっともないと思われているのだろう。



 納戸にはその巻いた掛け軸が数さおあって、それを時々交換する。

 掛けるときは、豊かで、心を身構えさせる清廉な覚悟を感じる。


 来客に向けて伝えようとする空気、メッセージ。書はそれができる。




 独りの時でも書は存在感がある。

 ある時は戒め、ある時は達観し、ある時は森羅万象を受けいる文句が書いてある。



 その字は崩してあって、なかなか読めるものではない。


 所有しているから読めるのであって、他人がなかなか読めるものではない。

 書はそういうものだ。



 書いた人が有名ならば、その人はわざわざ読みにくく書いてあげる。

 その意味を知っているということはその人物から説明を受けたという証拠だ。


 だからその掛け軸、書はいつもなんだか分かりにくい。

 他人には分かりにくい。



 書いてある文句が有名ならば、その出展の故に書はわざわざ崩してある。


 その真髄を深く知ろうと見入らせるために。



 書は書くほうが実は心がある。

 ただ我々が誰かに書を送っても珍重されたりはしない。


 それだけのことだ。



 だから自分で書を書いてもよいのだが、なかなか気恥ずかしくてできない。


 書は難しい。




 ネットの時代なのだから、こういうものを交換できたりする商売でもやったらどうか。