夜の街

2020年8月9日日曜日

江戸時代

 江戸時代の夜の街と言ったらやはり吉原などの遊郭だろう。
 関西で言えば飛田遊郭に当たる。今の飛田新地だ。

 遊郭はどこにでもあった。
 それこそ明治、大戦。昭和となってもまだ名残りを残す遊郭跡は各地にあった。

 江戸時代には今のキャバクラ的なところがあった。
 それが茶屋だった。

 今、「接待を伴う飲食」ということが言われているが、それにに当てはまらないではない。



 茶屋には看板娘がいて、浮世絵師がその絵を書いて刷って人気になった。
 今で言えばプロマイドのようなものだったろう。

 評判の娘となると、江戸中、各地からそのプロマイドの娘をひとめ見物しようと男衆が集まったりした。

 茶屋は結婚によって旦那がその娘の身を引き受けるということがあった。
 公娼や花魁などのプロではないので、公けにはそれ以外にその娘とねんごろになる方法というのはなかった。

 器量のよい娘がいれば、そんなことを夢描いて親は店に娘を立たせた。

 福沢諭吉も洋行後、そんな茶屋の娘を妾にしている。


 一方、遊郭はプロが提供する遊び場である。
 旦那衆、男衆かがカネを払い、一晩をともにしてもらう。

 酒を出し、料理も出す。
 あまり言われることはないがその料理も贅を尽くしたものだったはずだ。

 必ずしも考えられているように遊郭は直接的な性の捌け口というわけではなかった。

 ゴザをもってあちこちの河原、橋の下で体を売る売春婦というのはいた。
 化粧気もあまりなかったろうし、病気もあったろう。

 そちらにはあまり伝えられる物語はない。
 生きてゆくための人類最古の商売ということ。


 それに、都市部はともかく、農村や漁村の場合は性的には大らかなもので、祭りの夜の乱交や夜ごとの夜這いという風習など、今のような性風俗が育ちようもなかったというのはある。



 遊郭は性的サービスだけでなく舞台が提供された。
 客にとってはもてなしという舞台であり、女性たちにとっては借金や奉公のために体を捧げるという人生の舞台だ。
 そうしてそこで修行のようにして女たちは一人前の花魁を目指した。

 運命的な因縁から仕方なく遊郭に入ることになった娘たちもいただろうが、だからと言ってそうそう誰でも活躍できるというものでもなかった。

 華やかな場所であった。
 人気の花魁となれば一晩で莫大なカネが動いた。

 相撲取りのようにみなが花魁を担ぎ上げ、価値を高めた。

 そしてトップクラスの花魁とひとときを過ごすというなら、それまでには得意からの紹介や身分の保証、日頃のパトロンとしての付き合い、たしなみ、品格、長い交渉事が必要だった。

 たとえ殿様でもそうは自由にはならなかったはずだ。

 その華やかな権威にまた人が集まった。


 そこは今の大相撲の「タニマチ筋」とまるで変わるところはない。
 後援会に入ってもせいぜい関取がパーティーで酌をしてくれるぐらいだ。

 相撲話をしながら差し向かいで呑むなど、よほどの立場でなければしてくれない。


 羽振りのよい商人でもなければ、金がなくては縁などありようもなかった。
 だからやはり大きな遊郭は大阪、江戸と大都市に集中した。

 地方の遊郭となれば大都市の遊郭を真似たようなものであったが管理売春に近いものだった。
 間違いのない娘、化粧や衣装、上等な舞台を用意してくれたというだけである。


 有名となった花魁が引退後に地方で商売を始めるようなこともあった。

 それこそ地元に錦を飾ろうとしたのだった。地方によってはそういう元花魁の働きで江戸や大阪の華やかさを持ち込んで繁盛した遊郭もある。


 花魁のお披露目や行列などは多くの見物人を集め、人々の目を楽しませ、豪華なものだった。
 宣伝でもあり、権威を見せる顔見世興行となった。


 歌舞伎は女性が演ずるものではない。
 だから欧米のバレエのように舞台袖にパトロンがつくという男女関係というものはない。ドガの絵などは有名である。

 一部の歌舞伎役者には男色があったが、それはまた別の話だ。


 だからこそ吉原はいっそう華やかな舞台となった。
 大いに普請され、豪華なものとなった。


 その横綱級、大関、幕内相当の下にはまだ出世披露のできぬ遊女たちが遊郭を飾った。

 普通の庶民が金を工面して遊ぶとなれば、せいぜい彼女たちとの一夜ということになる。


 男衆にとって彼女たちを通じて花魁の噂話も聞けたろうし、上客の旦那衆の噂話も聞けたろう。

 そうした楽しみもあったに違いない。


 もちろん花魁の浮世絵などもよく描かれた。

 花魁の場合は、いわば今の女優などのスター同然、そのポスターの扱いだった。