終戦記念日などありようもない

2020年8月15日土曜日

古式生活 江戸時代

 戦国の世の昔、我が国の各地では多くの戦いがあった。

 しかしそれを「記念日」などと、ふざけたものと扱った時代は一度とてない。


 天下を分けた関が原の合戦、その終戦記念日だと誰が祝っただろうか。

 弔いはあろうとも、その関が原があったから太平の徳川の世となった。

 それは祝われるべきことか、問え。


 織田も秀吉もそのような治世のために戦った。
 歴史の成り行きに過ぎぬ。敬意を払うというなら、黙して、いにしえの時の流れを思うだけだ。


 利害や主張が対立し、信用ならない相手と極限において和睦できる唯一の解決策は戦さというものだ。


 「戦争はあってはならない」などと、当時に言う者などいたら、嘲笑どころか即座に首を刎ねられただろう。

 主君のために戦わなくてどうする。

 子供や家族のために戦えないでどうする。

 しにたくばそこに直れ。首を刎ねよう。一人でくたばれ。


 今の時代、答えをせずに主張だけすることが漫然と許されてきた。

 彼ら、主張だけで答えようとしない連中の甘えは、どんなに人を犠牲にしようとも憚ることはない。


 繰り返されてきた欺瞞は戦後、75回となった。

 戦後どころか、終戦した歴史しかなく、記念日などない。

 その日を境にして卑怯者が善となり、堕落した者が正義となったわけではない。歴史には贖罪の機会などないのだ。

 卑怯者は戦時中も卑怯者であり、戦後も抱きすべき因業を抱えた不埒者だ。


 ここまで無様に生き恥を晒して生き永らえながら、決して感謝の言葉がなく、まだ人にモノを言おうとする愚者がいる。

 救いのない魑魅魍魎、餓鬼のような人々がいる。

 毎年の夏にこうしてあちこちで騒ぐ連中がいる。

 本日。
         卑怯者が跋扈する日なり。


 「民間人が殺された」などとヒバクシャらは言い、古来から戦いには百姓も借り出されたことを見ない。
 一億火の玉だとやっていた時、うぬらは、いったいなにをしていたのか。

 国防に前のめりになって、熱を上げない虚弱な者を叩いた者だったはずだ。
 それが必要だったからだ。

 疑問があったと言いながら、多勢につけと熱狂したのだ。


 それが今度は平和だのと目を剥き、己の醜さも隠そうとせず欺瞞する。

 地獄に墜ちよ。



 古来、人心をたばかる者は処罰された。

 戦争体験だなどとダシにして死者を愚弄する者が涌く夏。

 戦さへの敬意を払わぬ者がいる。

 戦死者を被害者とし、その魂を貶めようとする連中が涌く。


 この連中こそ恥を知らぬ餓鬼道に落ちた者だ。

 生きる屍は死んでもその魂は決して救われないだろう。


 無意味で、ないものねだり、オノレがやったことを一度たりとも反省すらせず、翻したとて誰も信用などせぬ。
 お前が踏みつけているのはお前自身であり、将来の平和なのだ。


 一億火の玉になって戦った歴史に敬意を払え。

 戦さは起こりえるべくして起こる。

 合戦を弔うなら黙してせよ。



 泣いてわめきちらし、また戦さを起こそうとする不埒な乞食よ。

 戦乱の手助けをしようと人心を惑わし、奴隷や穢多非人になろうと、他人の脚を引っ張るな。



 こいつらの首を刎ねよ。腹など切らせぬ。

 切腹は武士にだけ許される尊厳ある死に様だ。

 尊厳などカケラもない連中が、またも夏に涌いてきた。