書の工夫

2020年10月9日金曜日

古式生活 江戸時代 武士道

 「掛け軸の書」や「書額」というものがある。

 書額はたいていは勢いや力強さが求められ、魂、意思などが伺えるものがよいとされる。

 道場や広間に掲げられ、戒めや心得として人に訴えかける。


 一方、掛け軸は主に茶室や床の間にかけられる。
 眺めた時に穏やかさを与え、静けさを補助し、人の心を落ち着かせるものがよい。

 これらを総称して我々は「書」と呼ぶ。


 これらは、たいてい字を崩したもので、いわばデザインなのではあるが、欧米で言う「カリグラフィ」とは少し違うものだ。

 カリグラフィは文字のひとつひとつを崩して調和させることを基本としたデザインだ。

 それ自体には意味のないアルファベットを、言葉や文章を構成する部品として扱い、全体として工夫して美しく見せようとする工夫だ。

 それは雰囲気を強調するための装飾であり、書かれたものを美しく見せようとするための工夫だと言える。



 一方、日本の「書」というのは「見せる」というよりも「読ませる」ものだと言える。

 その崩し方には法則性があり、書き順というのが重要になる。

 同じ工夫でも、言葉の持つ勢いや意味を表現するための工夫、伝えるための工夫がある。

 魂を込め、人の心にに働きかけるために書かれた書は、情報の伝達よりも含意、情報の重さに重点が置かれている。

 それが深い哲学が込められる理屈となる。


 最初は読みにくくても、所持し、掛けておいて何度も眺めていると伝わってくる。
 書の表情が変わり、語りかける意味が変化する。

 「見せる」という工夫と、「読ませる」という工夫。

 漢字という、それ自体が意味を持つ文字を我々が持っていることは大きい。



 もちろん日本にもカリグラフィ的なものがある。

 相撲の番付表、落語の看板書き、歌舞伎、そんなものだ。

 芸事系のものはやはり飾ることが第一だ。

 だから自由自在に文字を躍らせ、限られたところで装飾をする。

 その場を盛り立て、華美さを演出する。

 そうしたものを我々はあまり「書」とは言わない。




 そうは言っても、欧米の言語より日本語の方が優れているかというと、実は足りない部分もないわけではない。

 一番それを感じるのが「韻」に関してのことだ。

 せいぜい日本語では体言止めの母音を合わせるとか、そのぐらいだが欧米の韻はもっと複雑で多岐にわたる。

 あまりこれを取り入れた日本語の表音表現というのはない。

 我々の言語も、まだ追求し足りないところもある。