鮒釣り

2020年10月4日日曜日

 「釣りは鮒に始まって鮒に終わる」

 古来からそのような言葉がある。

 釣りと言うものの楽しみ、その心を教えた言葉だ。



 余興や楽しみとしての「釣り」は獲物を捕らえることが目的ではない。

 つい我々は勘違いをして獲物をどれだけ得られるかを楽しみとするようになる。

 どれだけ多くの魚を吊り上げられるか、なんて熱中してやっていると、隣で投網がかけられたりして、とたんに興ざめてしまったりする。


 わざわざ餌をつけ、ウキと糸、竿で魚を釣り上げること。

 結局、釣りはそこが面白いのだ。


 魚を捕らえようとするなら効率性を追求し、道具を工夫し、ヤナでも何でも使うことが出来る。

 そうなればそれは「釣り」ではない。漁師でしかない。


 そうして、「鮒釣り」ということが日本では古来から釣りの醍醐味として言われてきた。

 「鮒」は賢く警戒心の強い魚だ。
 そして生息するその習性があまりブレない魚だ。

 その習性を利用してゲームフィッシングとしての釣り、余興としての釣りを楽しむ。
 それが古来からの「鮒釣り」である。

 それが冒頭の「釣りは鮒に始まって鮒に終わる」という言葉の真意につながる。

 その心は「魚との駆け引きを楽しむ」ということに尽きる。


 餌をつけ、糸を垂らしてまず底までの水深を測る。

 その水深からひとつ二つと、エリアを分けて水の中を意識に捉える。
 水温などによって水中にある種の「階層」を想定して分ける。

 これを「タナ」などと言い、水の中にはエリアが分けられていると考える。

 鮒はそのタナを一定の範囲に限って泳いでいるもので、その範囲から上や下へは出てゆかない。
 これは水温や天候によって変わる。


 目的のタナに鮒が来ていると感じたらそこを狙いとする。
 その「タナ」にいる鮒を狙いとするのだ。

 水中の真ん中、タナを取ったところに餌を浮かせる。

 そこからが鮒との呼吸や間合いの勝負となる。



 お腹が一杯の鮒は退屈をしている。
 タナを回遊する鮒は暇をあかしている。

 そこに糸を垂らす。
 静かにして、鮒の警戒心を解く。

 鮒が興味が湧けば、いずれはエサに食いついてくれる。

 最初はちょっとした興味からエサをオモチャにし、突つきまわし、最後にやっと食いついてくれる。

 それらの鮒の反応はウキの動きで感じることだ。

 竿の揺れでそれが分かる。

 その最後に鮒がエサに食いついた瞬間を狙って竿を起こして糸を引く。
 鮒の口に針が刺さって取れなくなる。

 鮒を観念させ、ゆっくりと岸まで吊り上げる。

 そんなところが鮒釣りの醍醐味なのだ。


 鮒がちょうど食いついたところを感じて糸を引く、そういうクリーンヒットしなければ納得できず、恥ずかしいとされる。

 「スレ」と言って、針がたまたま体のどこかに引っかかって鮒が釣れてしまうようなことがあるが、それはちょっと人目をはばかる。

 鮒と釣りをしている人の呼吸や間合いを探ること。
 それが鮒釣りの極意だ。

 だからそのために敏感な竿を選ぶか、ある程度は鈍い竿を選ぶか、議論や沈思黙考となる。

 ウキは反応がよいか、水深の深いところの鮒であればウキを長いものにして狙うとか、色々と考える。

 鮒の反応を知るための道具を考え追求してゆく。
 


 実際、鮒という魚はあまり食べらるような代物ではない。

 しかし鮒をただ釣ろうとするなら難しいものではない。
 腹をすかせている時間にでも行って餌を撒いて集め、ドブンとエサを沈めて竿を垂らしてしまえば容易に鮒は釣れてしまうものだ。

 タナもへったくれもない。

 釣ろうとすれば釣れないこともない。

 だがそれは日本人にとっての「鮒釣り」ということにはならない。


 こういうことがあるので「釣堀」というのが商売として成り立つ余地がある。

 鮒との感覚の探りあいなどを趣向として提供する商売だ。


 だから、もちろん釣堀でそんな鮒をただ釣るようなことをやっていれば叱られたり軽蔑さえされたりするものだ。

 「ゲームフィッシング」という言葉は世界にあるが、日本の場合はより深いものがある。
 

 それは魚と人間との駆け引きをわざわざ作り出し、楽しむゲームだ。

 守るべき作法と言うものがあるのは魚にさえ敬意を払おうとする日本の心だ。