流れ、成り行き

2020年9月16日水曜日

古式生活 武士道


 日本人は「流れのまま逆らわない」ということを重視したり、「自然の流れに従う」ということをよく考える。

 「成り行き任せ」というと無責任という意味になってしまうが、大勢を見るというのは重要だ。

 大将、その長でもそうしたことを考えたりもする。
 大将や殿様を勤めるのでなく、一介の足軽や兵隊であればもっとそれは自然なことだ。

 「成り行きを見守る」というのは大事だ。
 大勢を見て判断し、予測し、推察するということ。

 まず自分の置かれた場所、役割を尊重し、そこを基準に大局を見るのだ。


 だから、「まず自分ありき」ということはない。

 自分はその大局の中に身をおく存在なのだ。

 まず前提としての大局があり、成り行きがあるということになる。



 よく「時代の潮流」などと現代では云う。

 戦後、世界の流れを見誤って敗戦となったことの反省からだろうか、やたらと時代を見るということが言われ続けてきた。

 今も我々は情報化の波に乗り、我々はAIの流れに乗ろうとしている。

 その「流れに乗る」というのは、実は江戸の昔、それこそ戦国の昔から我々は普通にやってきたことだ。

 
 
 しかし、「流れを見る」ということとは何か。

 これが高じれば「自分を殺す」ということにつながる。

 それが果たして現代人には出来ているだろうか。


 それぞれの与えられた役割があり立場があり、働く場がある。
 足軽だったり、旗持ちであり、槍持ちでもいい。

 自分の立場と命じられた役割を重んじることは自分というエゴを消すことだ。

 
 サバイブすることが目的ではない。

 大局の流れの中に身をおき、与えられた役割に応じて働いて死ぬこと。

 その覚悟だ。



 戦さの中で、精一杯に動いてもやられることはある。

 百姓が足軽として駆り出されたのなら、負傷すればそのまま死んだフリをしている。

 古来、そうした足軽は見逃されたと伝わっている。
 息をしていたらトドメをさされるというのは、あくまでも武士としての立場、そうした者に関してのことだった。

 馬に乗っていたら武士だ。死んだフリをしていするわけにはゆかない。
 しかし、先頭の前線に捨て駒として使われた百姓たちや百姓出身の足軽はあくまで駒だ。

 昔の「戦さ」とは大勢を決することであった。終わってしまえば瑣末なことはどうでもよい。

 戦国の世でも命からがら敵方の大将が逃げたということもあった。どうせ先はないと捨て置かれた。

 だから逆に、お互いに勢力が拮抗していた場合はなかなか決まらず、悲惨な戦さになった。

 「戦さ上手」というのは、そこで戦略を巡らせ犠牲を最小限にとどめたから歴史に名を残す。


 「決められないものを決める」、その手段のひとつが戦さだったから、誰もこれを「悲惨な戦争」などと絶望する者はいなかった。

 現代では卑怯者や腑抜けが、戦争を悪し様に言うが、彼らは本当は人の命など大事にしてはいない。
 大勢や流れなど見ない。まず自分というものがあるだけだ。
 餓鬼のようにうごめき叫ぶだけだ。

 流れが決まるその中に、おのれの立場とともに人はそこに置かれるのだ。

 これを感じられることに喜ばない者などいなかった。人は生かされているものだからだ。
 戦さも例外ではない。


 そうして人として生きることが、すなわち武士として死ぬことにつながる。

 その極意だ。