青海波について

2021年3月7日日曜日

古式生活 江戸時代 武士道

 器や着物に使われる文様のひとつに青海波というものがある。

 青を基調とし、文様は海の波、あたかもその無限な反復を意匠としたものだ。



 こうしたものはいわばパターンであり、イギリスのペイズリー柄などと同じものである。


 岡山県にある天柱山 頼久寺には、その遠州がデザインした庭があり、そこで小堀遠州はサツキの庭木を切り込み、青海波を表現するということをした。


「天柱山 頼久寺」公式サイト。小堀遠州作の枯山水庭園を拝観ください。岡山県高梁市

天柱山 頼久寺 Tenchuzan Raikyuji Temple


 この寺は傑作の庭として名高い。


 小堀遠州という人は武将でありながら茶の湯に傾倒し、庭園のデザインなどもしている。





 青海波は海の波を意匠としているが、それは単に幾何学的な美しいデザインというだけではない。


 同じ時代を生きた織田信長や豊臣秀吉らが外の海の向こう、大陸へと野望を抱いたこと、当時の彼らの野心のようなものを表現していると感じたから遠州はこの意匠を扱ったのだと思う。


 よく巷では「わび・さび」というが、それは元々は常に死を感じる日常の生き様の中でのことである。


 緊張が穏やかな覚悟へと転じたり、残酷な死が憐れみや慈愛へと転じる武将の世界でのことである。

 いわば生と死が隣り合わせの生活の下で感じる美しさである。



 それは平常の状態ではなかなか感じられることではない。


 だから、我々現代の者は、茶の湯にしても庭木にしても、こうしたことに死生観を感じようとし、生きる意味を感じようとするところにこそ意義があるのではないか。

 そう思うのだ。



 遠州が師事した千利休も懐に短刀を入れていたというし、武士的な覚悟はあったのではないか。


 だから、小堀遠州が、武将でありながらまるで文化人として茶人としての芸術を追求していたかというとそれは違うように思える。



 また実際、特に陶器など、実際に使ってみればわかるが青海波は決して穏やかな文様とは言えない。

 心を乱すような「誘惑」のようなものがある。

 それは「野心」ということなのだと思う。


 だから、青海波の皿にはフグや刺身、粗ら煮付けなど、どこか荒々しい料理が合うように思われる。


 この文様を「平和的」と評する人もいるが、本ブログでは異なる見方をする。




 器に使われるようになったコバルト系の青は、もともとは朝鮮から来たものであり、青海波の文様の流行は今で言えば舶来趣味のようなところがあった。


 それを庭木の意匠にまでしたというのは、やはり武士として朝鮮を制覇し、やがては明、大陸をまで我が物とするという遠大な野望の表現があったように思う。


 これを単に「趣き」の追求としてしまうのは、まるで遠州を「庭師系武士」のように矮小化してしまうようでもったいない。


 古来の人々には見方の違いこそあれ、死生観というのもあったのである。




 現代のように死生観と向き合うことを避け、人の死は運命や宿業からではなく偶発的な不運で片付けられるようになった。


 そんな時代とは違い、戦国の時代は死は必然であり、ならばまたその生も必然であった。


 我々は生まれたからには為すべきことをしなければならぬ、それが戦乱の時代に研ぎ澄まされていった精神である。


 やがて徳川泰平の世となり200年という長い成功を遂げるうち、泰平の世を前提とすること、つまり「平穏」のうちに精神を磨くという別な側面からの文化が生まれたことも否定できない。


 しかしその太平の世は戦乱の築いた骸のもとに成り立っていることを人々は忘れなかったろう。




 似たようなことを現代でも云う向きがいるが、その意味は大きく異なっているように思える。


 それは「大戦の犠牲があって今の平和があるのだから・・・それを大事に」などという言い方だが、そこには偽善を感じないわけにはゆかない。


 平和というのは一時の平穏であり波の止んだ「凪ぎ」の状態でしかない。

 常に危機を想定せずして平和などなく、緊張無くして安穏はない。




 だから、それは決して悲劇的な「犠牲者」ではないのだ。

 我々は彼らの亡骸を踏み台にして生きる。

 彼らの成し得たこと、果たせなかったことを踏まえての我々があるのだ。


 今の戦後、どれだけの罪深き偽善が跋扈し、日本の精神を歪めてきたかを思わずには要られないところだ。


 いささか死者に不敬ではあるまいか。