胆力というもの

2021年2月15日月曜日

古式生活 自律神経 武士道

 一昨日のこと、夜に大きな地震があった。

 長く感じる大きな地震だった。



 無難に対応し、危険対応はした。

 今はすっかり平常に戻っている。

 冷静に対応したまでだ。

 騒いでいる向きもあったがこちらは片付けを済ませ、すぐに何事もなかったようになった。
 

 考えてみると、こういうことでの対応力を「メンタルの強さ」とするのは十分ではないかも知れない。

 「メンタル」ということにも色んな面があるだろうからだ。





 極端な状況や非常時に冷静でいられるというのは、メンタルの強さに見える。

 かといって平時のプレッシャーにも強いかと言うとそうでもないことがある。


 小さなことなのに、まるでストレスに弱かったりする。

 細かなことで思い悩んでしまい、抱え込んだストレスのためにあらぬ失敗をしてしまったりする。

 こうしたストレスというのは性質が異なれば必要とされる心構えはまた違うものだ。


 だから当然のことではあるが、それぞれの状況に応じての「強さ」が欲しい。

 すべての局面に対応した冷静さや動じない精神力が必要と思う。




 小さな、ちょっとした口論から大きなことは戦さに至るまで、その守備範囲の幅広さがどれだけか、それを「胆力」と言ったりする。

 
 臨機応変であり、「懐が深い」とも言う。

 ストレスを退け、対応に集中できることが大事だ。


 腹の下、ヘソのあたりに向けて息を吐くような感じで呼吸してみると、落ち着ける。

 そこを丹田と言ったりする。肝を座らせるために具体的に古来から意識されてきた部分のひとつだ。





 地震で少しも慌てないのはよいとしても、では普段の何気ない摩擦、ちょっとした誤りとか、口上のしくじり、女子に袖にされただけで泡を食ってしまうというのでは困る。

 しかしそれは別な性質のものだから、対応の性質が違う。心構えが違う。

 特別な時、尋常ではない事態にはたやすく対応できても、普段のなんでもないことに冷や汗をかいてしまうことがある。


 問題の性質が違うから、同じような強さでは対応できないのだ。

 だから、普段は心臓に毛が生えているような肝の座った人間でも、敵わないことがあったりする。

 逆に普段、どんなに損失を抱えていても動じず図々しいぐらいに見えるのに、地震で少し揺れればパニックになって慌ててしまう。

 平時に強いメンタルを誇っていても緊急時には崩れてしまう。





 「平時から戦場にあると思え」、その戒めはひとつの解決策を示したものだ。

 あるいは逆に、「戦さでも平時のように落ち着いて振舞え」というのも同じだ。


 畢竟、こうした人間の気構えというのは「想定」にある。

 異常な状況ではいかに勇猛であろうとも、平時でストレスを抱え込んで塞いでしまうようでは未熟者のそしりは免れない。


 戦乱でしか能力を発揮できない武将は平安の時代が訪れると使えず、疎まれ、やがて廃れていった。

 関が原の後、次第に平時での対応力が求められるようになった。

 武士が官僚へと変化してゆく時代の変化があった。




 その変化に対応できた武将とそうでなかった武将とが出た。本多忠勝などはそんな武将の一人だったかも知れない。


 「胆力を鍛える」と、言うは容易いが、必要なのは広い対応力を身につけよということだ。

 時代が変われば求められるものも違う。


 地震もコロナも、日頃の小さな諍いにも対応してゆかねばならない。

 自律神経を鍛えておくことは、そのためのひとつの道である。