忍耐、我慢ということ

2021年2月8日月曜日

古式生活 江戸時代 武士道

  この表題のことは、あまりに最近しつこく言われていることだから改めて考えてみるべきだろう。

 それは忍耐、我慢ということ。


 目下のコロナ感染拡大の折、その自粛や対策への協力について、人々には「忍耐が強いられている」などと盛んに言われていることだ。

 「人々は我慢に耐えかねている」などという言い方だ。


 それは嘘であり間違いだ。子供っぽいないものねだり、そんな連中ばかりとは嘘もはなはだしい。

 まったくの不埒な言い草といわざるを得ない。




 まず「忍耐」というなら、それは人が責められたり辱めを受けることに対し、ひたすら道理のために堪え忍ぶ姿のことである。


 それはどんなに理不尽なものであったとしても、押し付けられたものであったとしても、結局は自意識の問題であり、節度の問題である。

 時を待ち、道理が通るを待つ。


 例えば嫌疑をかけられ、今しも処罰されようとする主君のため、忠臣はむやみに反乱を起こさず、仇討ちのために覚悟のテロルを誓うまで。

 その四十七士の心だ。


 あるいは公然と侮辱されながらも、殿中で刀を抜くなという掟に従わねばならず、自身の順法精神と矜持の板挟みに苦しんだ男の心だ。



 それなら「我慢」とは何か。

 これに幕府の禁奢侈令に従う市井を挙げることができるだろうか。

 それも誤りだ。


 長い徳川の世でも飢饉は起きた。

 そのために格差から起きる不穏を消しさがんため、幕府は贅沢、つまり奢侈を禁じた。


 しかしそれが奢侈を我慢した心などというのであればそれは違う。

 幕府は、欲望のままに趣くままに過ぎたることを禁じたに過ぎなかったからだ。


 飢餓で死んだ人々は法に殉じた。

 それは恭順ではあったかも知れないが我慢ではなかった。



 もしただ生き残ろうとするをよしとするなら、どんな飢饉の災厄の下であっても、市民であることを捨てればよかった。

 どの時代でも、市民や人間であることを捨て、山里にこもればいくらでも生き延びることはできた。


 飢饉で死んだという人々は、世のならい、秩序に従ったために死んだのである。


 移動が制限され、自由よりも義務と法が優先すれば犠牲は起きる。


 しかもそれは我慢ではなかった。

 むしろ殉教に近いものであり、世俗の秩序や支配への恭順である。




 では「我慢」とは改めて何か。

 まずそれは、己を試し己の限界を知ろうとする苦行が挙げられる。

 それはまさしく滝に打たれる中に精神を鍛えようとすることに他ならない。

 

 それは自ら選んだ苦難に対すること、生物としての人間の限界を超えようとするために苦痛を選ぶということ。苦行と言っていい。


 あるいは欲しいものを自分のルールによって控えるという自制心だ。

 そしてその自制心は自らから課した掟や誓いに由来している。


 すなわち、それは自身が自らに課すものであり、修練に値するもの、それが「我慢」である。

 



 古来、どれだけ我慢が出来るかどうかは男の価値を決めるひとつであった。

 小さなことに我慢すらできない男は信用がならない。


 流されるまま、易きにつくだけのような人間と運命を共にすることなどできない。


 古来から男だけでなく女も、恥をかくことをよしとせず、たいていのことに我慢が出来るかどうかが大事だった。それはその人物の価値を決めた。


 「我慢大会」なども、現代に伝えられるその名残だと言える。

 わざわざ自分自身に課す困難に堪えられるかどうか、それが我慢である。



 今、我侭や他力本願が横行し、人心があまりに堕落してしまった。

 そのため、これに付込むようにして、世間では忍耐や我慢と言うことがまるでどこからか押し付けられた罰であるかのように流布されている。


 このコロナでの「自粛」の本質は、それは結局は自分と自分の周囲、家族、共同体を守ることだ。

 そこに「犠牲」などありようもない。


 本来なら、これら我慢も忍耐もどちらも自分で選ぶことである。

 決して不本意ながら渋々受け入れるものではない。




 武士は主君、すなわち義に従い、義によって死ぬ。

 我々は理由なく生きているわけではない。必ず大義があり、我々には為すべきことがある。


 畢竟、今のコロナ禍の世情で、疫病のために忍耐させられている、疫病のために我慢させられているなどという言い草は、まるで赤子の泣き言に等しいのだ。


 それはこの世から正義を意味なくさせ、秩序への畏敬を軽んじさせようとする勢力が弄する不埒な世迷いごとである。


 そこには大衆操作のための意図があり、そこに流れているのは万死に値する愚劣な心だ。


 我々は古来、もっと多くの災厄や深刻な疫病を経験してきた。


 スペイン風も江戸時代に日本に入ってきたし、多くの日本人が死んだ。


 それが今のこの体たらくはどのようなものだろうか。

 


 しかもこうした市民の心情を代弁するかのようにして不安を煽り、人心を乱そうとしている張本人新聞やテレビ、古来で言えば瓦版屋である。


 こうしたメディアが、このような人心の不満を煽ることなどあってはならないことだ。

 まさしく、秩序を乱そうとする張本人ではないか。


 泰平の徳川の世であっても、こうした煽りや扇動は厳しく諌められ、死罪にさえなった。


 あの「蔦屋」にしても、そうした「表現の自由への規制」を受け、弾圧に遇ったと言うが、今のコロナ騒ぎを考えれば、当時はいったいどちらに義があったのだろうかと思ってしまう。


 我々は写楽の謎めいた物語に気を取られて、「蔦屋」は美化されてはいまいか。

 今の我々は「蔦屋」と同じ、テレビ朝日や朝日新聞のような扇動媒体を美化してはいないか。



 秩序を乱すものが取り締まられ、断罪されるべきは今の道理でも変わらない。


 秩序維持のために努力することを「我慢」や「忍耐」などと、曲解しようとする勢力にどんな意図があるのか。


 権利権利とかしましくいいながら、果たして今の市民はその義務を江戸時代ほどにも果たしているのだろうか。

 享楽にうつつを抜かすだけの「うつけ」ではないのか。


 不逞なる者を放置するは、そは市井にあらず。

 斬り捨ててなんら問題はない。


 コロナで我慢しているなどと言うなかれ。


 享楽に明け暮れたいがための不埒な欲求は非難されるべきである。