鐘の音

2020年12月23日水曜日

古式生活 江戸時代

  古来、ヨーロッパでは教会の鐘の音が届くところまでが領地であるとされた。

 だから教会の設置には領主の許可が必要であり、時を知らせるだけではなかった。

 集会、葬式、領主の視察など、各種の行事を伝えた。


 すなわち西洋の鐘は、宗教という権威にありながら支配や統治というものから来ているものであり、音を使った信号伝達の意味があった。

 その鐘も工夫がされ、できるだけ遠くへと鳴り響くよう改良が重ねられた。

 そのことは大きくヨーロッパを統一する方向のきっかけともなったと思う。




 我が国では鐘は純粋たる宗教であった。

 梵鐘と呼ばれ、悟りや宗教的な求道を補助するためのものである。

 寺の内部にあっては祈りや毎日の修行の時刻をケジメともに伝えるものでもあり、外に向かっては仏教の教えを守り伝える僧侶が中で活動していることを伝えた。

 そこには「心を静めよ」という戒めしかない。



 日本の戦さでは音を出すものは限られていた。

 あまり武将たちが鐘を使ったという記録はない。

 ほら貝というのはあったとされているが、鐘の音というのは血なま臭い場面には使われなかったようだ。


 せいぜいが戦さでは太鼓やほら貝程度が使われ、音を出すことは名乗りを上げる武者の声そのものであった。

 武将たちの雄叫びを遮るような鐘の音は無粋で卑怯とされたのだろう。

 日本は戦いの場であってもそうした美学があった。


 我が国では音を出す道具としての鐘は、あまり支配や統治の象徴として使われたことはないように思える。



 日本の仏教とて乱れたこともあった。

 比叡山延暦寺は武装し、寺の内部では風紀は乱れ、人の道、仏の道を外れた所業があったとされる。

 今で言えばISIS、イスラム国のようなものであった。

 坊主が戦国武将に対して領地の所有を主張した。

 その上、延暦寺は反織田勢力につき、土地の要衝を押さえる勢力としての扱いを保障させようとした。

 織田信長はこれを討伐し、焼き討ちにしたのである。



 これはやや穿ち過ぎかも知れないが、織田が徹底して延暦寺を焼き討ちし、壊滅させたのは、鐘の音を止めさせることも目的だったのではないか。

 無法に走った寺の鐘が、やがて仏教以外の目的に使われるようになり、権力が武将以外のものにまで蔓延、暴走してゆくのを止めるためではなかったか。


 鐘の音を止めるには焼き討ちしかない。

 信長は、むやみな信号伝達の手段の氾濫は百害あって一理なしとしたのではなかったか。



 今で言っても、コミュニケーションの手段というのは常に権力によって利用や制限さるものである。

 中国ではメディアどころかネットそのものを検閲しているし、アメリカのメディアに入り込んだ中国資本は中国共産党の都合の悪いことを流させないようメディアに圧力をかけている。

 当時の鐘というのも同じ情報伝達の意味がある。


 南蛮渡来の仕掛け時計など、音の出るものを好んだはずの織田にはそうした深謀、動機もあったのかもしれないと想像をしてしまう。



 やがて江戸時代になり半鐘という形で、鐘の音はその必要上から利用され、汎用的に使われるようになった。

 火の見やぐらと半鐘である。


 都市の成長に合わせて火災への警戒が必要になり、火災発生を知らせる号令、半鐘の音が盛んに使われるようになった。

 

 それでもまだ時を告げる梵鐘の音ぐらい、人々は音と言う意味では静かな暮らしをしていた。

 今と較べればずっと静謐な暮らしだった。