海外からの訪問が多かったため、できるだけ翻訳しやすいように分かりやすく記述してみる。
「翻訳ボタン」を活用していただきたい。
今回は盆栽についての解説だ。
「盆栽」というのは、海外でもよく知られるものとなった。
「BONSAI」と、そのまま日本語の発音で呼ばれている。
しかし「BONSAI」は、箱庭でもなければ「ジオラマ」でもない。
その心、あるいは真髄について、正しく理解されているだろうか?
そこに表現されているのは小さいが、力強く生かされた命だ。
よい盆栽というものには「表現」がある。
それはその樹木自身による表現である。
その小さな盆栽鉢の中で、樹木が命の輝きを放っている。
僅かの水分と土しか入らない水盤に植物を植え、そこで樹木が生きるようにして、育ててゆく。
長い年月をかけて手入れをし、樹木に自立したチカラを与える。
その植物は小さな盆栽用の鉢で生きるから、生態系や季節に縛られるということはない。
「生きる意味を与える」ということが、盆栽の意味のひとつである。
盆栽は、「与えられた世界で精一杯生きる」ということを我々に教えてくれる。
主人はこの盆栽のため、なかなか旅行したり出かけるということはない。
古い時代、日本の隠居した主人は常に家にいて、盆栽の世話をしてきたものだ。
盆栽というものは日本古来からの芸術のひとつだ。
1192年の鎌倉幕府成立の頃には、すでに武士たちがこれを嗜んでいたと言われている。
これは中国から入ってきた観賞法であったが、すでにその意味は変わり、日本固有の文化となったと言っていい。
鉢植えではない。
観葉植物でもない。
ジオラマでもない。ゲームでもない。フィギュアのようなものでもない。
ニセモノであったり、模造品ということでもない。
何かをシミュレートしたものでも本来はない。
その盆栽の植物たちは、その小さな鉢の中でリアルライフを生きている。
盆栽については多くの誤解がある。
そのひとつが「矯正」ということについてである。
古来の中国には、「纏足」という文化があった。
今の中国共産党による独裁よりもずっと前の話だ。
それは、幼児期から幼い少女の足に布を巻き、足が大きくならないようにするという、矯正術である。
かつての中国では、女性は男性よりも弱いものでなければならず、その連想から「女性は小さな足が美しい」とされた。
そのために古来の中国では少女たちに対して矯正が行われた。
盆栽も同じように樹木の枝の成長を針金などで矯正する。
このため、盆栽の意味は誤解されることが多い。
しかし盆栽について、「植物を矯正して育てること」と考えることは間違いである。
本質的には異なる意味があるからである。
まず、木は自分の意思で姿を作れない。
手入れをせずに放置していれば、枝は乱れてしまう。
また、その植物は小さな盆栽用の鉢で生きるのであるから、森や自然の中での生態系や食物連鎖、天候の移り変わりにすら縛られるということはない。
植物の成長と生命維持を助けてやるだけでよい。植物が自分の本来の姿を自由に発揮できるようにしてやるだけである。
その盆栽鉢の中で、「植物の成長と生命維持を助けてやる」ということはどういうことになるだろうか?
それは、「その樹木が本来の姿であることを助けてやる」ということである。
全てのものには「呼吸」がある。
たとえ無生物である器であっても、刀であっても「呼吸」というものがある。
その樹木本来が持つ呼吸を整えてやること。いわば、植物に「自己実現」をさせてやる手助けをすることが、盆栽における矯正という手段である。
中国の少女に対する古い因習と同じものと誤解されるのは、盆栽が枝の矯正を伴い、剪定をするからであろう。
しかし、盆栽は新たな命を作る創造であるところがまるで違う。
だから、作り手の勝手な都合によるものではない。
例えば、作り手が樹木のしたいことを感じてやらず、勝手気ままに樹形を作ろうとすれば樹木は抗うものだ。
へたをすれば木が枯れてしまう。
これは不思議なことだがよくあることだ。
樹木自身がなりたい姿にしようと、手助けをしてやればいいのであるが、こちらの勝手な思い込みで「樹木を作ろうとする」と、たちまち盆栽は弱って枯れてしまうことがある。
それなら、ひとつ考えることはできないだろうか?
我々が人を使うとき、きちんとその人が生きるように注意ができているだろうか?
パフォーマンスに気をとられて、その人を無駄にしていないだろうか?、と。
こうして、盆栽から我々は人材の活用を学ぶこともできる。
盆栽を古くから武士が好んできた理由も理解できるだろう。
「臣なくば立たず」という古来からの言葉がある。
「よい臣下を育てなければ、結局は自分も成功しない」、という格言だ。
「翻訳ボタン」を活用していただきたい。
今回は盆栽についての解説だ。
「盆栽」というのは、海外でもよく知られるものとなった。
「BONSAI」と、そのまま日本語の発音で呼ばれている。
しかし「BONSAI」は、箱庭でもなければ「ジオラマ」でもない。
その心、あるいは真髄について、正しく理解されているだろうか?
そこに表現されているのは小さいが、力強く生かされた命だ。
よい盆栽というものには「表現」がある。
それはその樹木自身による表現である。
その小さな盆栽鉢の中で、樹木が命の輝きを放っている。
僅かの水分と土しか入らない水盤に植物を植え、そこで樹木が生きるようにして、育ててゆく。
長い年月をかけて手入れをし、樹木に自立したチカラを与える。
その植物は小さな盆栽用の鉢で生きるから、生態系や季節に縛られるということはない。
「生きる意味を与える」ということが、盆栽の意味のひとつである。
盆栽は、「与えられた世界で精一杯生きる」ということを我々に教えてくれる。
主人はこの盆栽のため、なかなか旅行したり出かけるということはない。
古い時代、日本の隠居した主人は常に家にいて、盆栽の世話をしてきたものだ。
盆栽というものは日本古来からの芸術のひとつだ。
1192年の鎌倉幕府成立の頃には、すでに武士たちがこれを嗜んでいたと言われている。
これは中国から入ってきた観賞法であったが、すでにその意味は変わり、日本固有の文化となったと言っていい。
鉢植えではない。
観葉植物でもない。
ジオラマでもない。ゲームでもない。フィギュアのようなものでもない。
ニセモノであったり、模造品ということでもない。
何かをシミュレートしたものでも本来はない。
その盆栽の植物たちは、その小さな鉢の中でリアルライフを生きている。
盆栽については多くの誤解がある。
そのひとつが「矯正」ということについてである。
古来の中国には、「纏足」という文化があった。
今の中国共産党による独裁よりもずっと前の話だ。
それは、幼児期から幼い少女の足に布を巻き、足が大きくならないようにするという、矯正術である。
かつての中国では、女性は男性よりも弱いものでなければならず、その連想から「女性は小さな足が美しい」とされた。
そのために古来の中国では少女たちに対して矯正が行われた。
盆栽も同じように樹木の枝の成長を針金などで矯正する。
このため、盆栽の意味は誤解されることが多い。
しかし盆栽について、「植物を矯正して育てること」と考えることは間違いである。
本質的には異なる意味があるからである。
まず、木は自分の意思で姿を作れない。
手入れをせずに放置していれば、枝は乱れてしまう。
また、その植物は小さな盆栽用の鉢で生きるのであるから、森や自然の中での生態系や食物連鎖、天候の移り変わりにすら縛られるということはない。
植物の成長と生命維持を助けてやるだけでよい。植物が自分の本来の姿を自由に発揮できるようにしてやるだけである。
その盆栽鉢の中で、「植物の成長と生命維持を助けてやる」ということはどういうことになるだろうか?
それは、「その樹木が本来の姿であることを助けてやる」ということである。
全てのものには「呼吸」がある。
たとえ無生物である器であっても、刀であっても「呼吸」というものがある。
その樹木本来が持つ呼吸を整えてやること。いわば、植物に「自己実現」をさせてやる手助けをすることが、盆栽における矯正という手段である。
中国の少女に対する古い因習と同じものと誤解されるのは、盆栽が枝の矯正を伴い、剪定をするからであろう。
しかし、盆栽は新たな命を作る創造であるところがまるで違う。
だから、作り手の勝手な都合によるものではない。
例えば、作り手が樹木のしたいことを感じてやらず、勝手気ままに樹形を作ろうとすれば樹木は抗うものだ。
へたをすれば木が枯れてしまう。
これは不思議なことだがよくあることだ。
樹木自身がなりたい姿にしようと、手助けをしてやればいいのであるが、こちらの勝手な思い込みで「樹木を作ろうとする」と、たちまち盆栽は弱って枯れてしまうことがある。
それなら、ひとつ考えることはできないだろうか?
我々が人を使うとき、きちんとその人が生きるように注意ができているだろうか?
パフォーマンスに気をとられて、その人を無駄にしていないだろうか?、と。
こうして、盆栽から我々は人材の活用を学ぶこともできる。
盆栽を古くから武士が好んできた理由も理解できるだろう。
「臣なくば立たず」という古来からの言葉がある。
「よい臣下を育てなければ、結局は自分も成功しない」、という格言だ。
0 件のコメント:
コメントを投稿