饗応と庭

2021年4月24日土曜日

玄関から庭へ 古式生活 食事 茶室でのこと

 古来から日本人は、人を「食事にどうぞ」と、自宅に呼んだ。

 食事に呼ぶことは人との交流の方法としては確実やり方だ。

 そして手料理をふるまう。


 家へ招き入れ、心づくしのものを食べてもらう。

 こちらも一緒に食べながらお互いを知ろうとする。

 作った同じ物を食べるという場、饗応は互いを知るのに役立つ。


 そうして、食事が終わると、食卓を片付る。

 そのままにしておかないのは日本人のやり方だ。

 ここで仕舞いということで、ケジメをつけるため食卓は片付けられる。


 そして家人が「お茶にしましょう」とか「甘いものでも」などと言いながら、食器を片付け始める。

 

 この時、「お庭でも見ていてください」と告げられれば嬉しい。

 客はその外を眺めて落ち着いて待っていることができる。


 

 もちろん、だから、客が座る場所は庭がそのまま見える場所だ。

 そこが客人の場所だ。

 主人が片付けている間、ふと抵抗なく庭を眺められる場所がいい。


 誰だって当たり前の話だが、こちらが食事をしている目の前でカチャカチャと片付けることなど嫌なものはない。


 差し向かいで店などで食事をしていて、あちらが終わったからと店員が下げ始めると申し訳なくも思うし、なんだか腹立たしい。


 商売なのでどんどん片付けなくてはいけないのは分かるが、どうにも落ち着かない。


 そちらの都合でこちらが食事をさせられている、そんな感じになってしまう。



 

 こういう時、庭を見てもらう効用というのは、最近の日本人がつとに忘れていることだ。

 マンション暮らしや庭のない家の暮らしではそんなことはできないから。


 逆にだから近年は客を家に呼ぶことも少なくなっているのだと言える。


 いくら食事が終わったとしても、目の前で片づけが始まれば落ち着かなくなる。


 食器を片付けてカチャカチャとやる。

 どうしたって落ち着かない。追い立てられるように感じてしまう。


 しかし、それがどんなに小さくとも庭があればいい。

 気を逸らせるし、片付けられているのは無視できる。


 人の家の庭を眺めるのは興味深い。

 どんなに粗末な庭でも植物には四季がある。

 日本人にはそうした風情を楽しむ心がある。


 それに庭というのはその人の個人と自然とのかかわり方をさえ表すものだ。



 

 これが庭の見えない部屋ならどうか。

 マンションの上階ならさぞかし絶景だろうが、展望は展望にすぎない。


 せいぜい窓から見える雲を見ているしかない。

 ちょっとそこは違う。

 食後のホッとしたひと息には合わない。


 食後に部屋に飾ってある置物や絵を眺めるというのもあるが、それはそれでまた苦労がある。


 庭が見えないものだから無理にでもそんなところに目を彷徨わせて落ち着こうとするのだが、置物や絵、それぞれ静物には主張と言うものがある。


 食後にそんなものに構うのはやはり落ち着かない。



 

 料理屋でもよく「個室完備」なんて言ったりする店がある。

 会合に使ってくれということなのだろうが、庭がないのではやはりあまり意味がない。


 閉ざされた空間でどんなひと息がつけるだろう。

 閉じ込められた狭い空間での緊張状態で相対する。

 それならオフィスで食事などない方が分かりやすくてやりやすい。


 商談や打ち合わせ、懇親会というが、いかに個室であろうと食器は必ず片付けられる。

 食後のお茶やコーヒーが運ばれてくる。

 それがまた落ち着かない。


 よく、こうして片付けに来る仲居さんに「ちょっと遠慮して」などと、わざわざこちらが言わされることさえある。

 それも疲れる話だ。


 なんだか断るのさえ手間というもので、気持ちが乱される。

 どうにも心遣いがないものに感じてしまう。


 便利な空間だと思いきや、意外と不便なものである。



 

 茶会の茶室というのは茶室から庭が眺められたりするようになっていたりする。


 あるいは庭が後ろに控えているということがある。

 茶事が終われば外へ出て庭を眺める。


 その間に、主人は色んな片付けものをする。

 そうしたことは、終わってから、客がすっかり帰ってしまってからやるという「後始末」というものではない。

 正しくは「最後の片付け」の一歩手前ということ。

 茶器を桐箱に収納する、その直前までの後の片付けをするということだ。


 何からなにまで客からは見えない脇へ退けておいてしまい、客が帰ってから客の全く知らぬところでやるというものでもない。


 そうでなければ饗応のうちには入らない。

 主人の最後までの段取りも、またもてなしのうちであり、その片付ける主人が不在では茶会と呼びようがない。


 主人は終わって庭を眺めている客のすぐ後ろ、そこで片付けを軽くしているものだ。

 茶会というのは始めから終わりまで、裏方も含めてのことだ。



 

 その間、客は庭を眺めて一服をつけたりもする。

 あまり知られてないが茶道でも煙草を吸うものもあり、作法もある。


 特に茶会に庭があるのは必要なことだ。


 我々は庭というものをどう使うのか忘れてはいまいか。

 何も丹精した庭でなくともいいのだ。


 庭というのは、日本人が古来から知る「間合い」というもののひとつである。


 緊張が過ぎれば疲弊する。

 その呼吸を和らげるものが庭である。



 盆栽や生けた花、庭に代替するものは色々と考えられてきた。


 だが、やはり庭の代わりにはならないと、それぞれの活用は独自に進み、それぞれの精神は別な方向で深まっていったように思う。